ユダヤ人強制収容所のアウシュビッツが解放された1月27日は、憎悪、偏見、人種差別の危険性を警告することを目的とする「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」と2005年の国連総会で定められました。しかし、制定20年となる2025年を目前とする現在も、罪のない多くのユダヤ人の命を奪う出来事が世界各地で起こっています。
国際会議で初めて人種差別の撤廃を訴えた日本
人種差別に関しては、第一次世界大戦後の1919年のパリ講和会議で新しい国際連盟を創設するための委員会において、日本が「人種的差別の廃止提案」を行ったことが広く知られています。国際会議において、人種差別の廃止が訴えられたのはこれが初めての試みでしたが、国際連盟委員会で採択が行われた結果、賛成票が反対票を上回ったにも関わらず「全会一致ではなかった」として否決されました。
「差別は悪」という共通認識が広く受け入れられている現代では考えられないことですが、当時の主要国は植民地を抱えていたため差別の撤廃に賛成することができなかったのです。当時、実際に差別に直面していた日本人はこのことに許しがたい憤りを感じており、1990年に見つかり発表された『昭和天皇独白録』(文藝春秋)でも、大東亜戦争の遠因として著述されています。
日本は第二次大戦中、枢軸同盟を結んだナチス・ドイツからユダヤ人迫害の要求を受けましたが、これを拒否。また「ユダヤ人を追放することは、国是たる八紘一宇(全世界を一つの家にすること)の精神に反するばかりか、米英のプロパガンダに使われる恐れもある」とし、同盟国である独伊の排ユダヤ政策とは一線を画す姿勢を示しました。
ナチス・ドイツ時代に迫害されたユダヤ人難民の亡命を手助けし、「東洋のシンドラー」として知られる杉原千畝は、その功績によりユダヤ人を救った人やその協力者に与えられる「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を日本人で唯一授与・評価されています。今回は、杉原のビザ発行後にユダヤ人難民が直面した運命を変え、彼らを無事安住の地へと導くために尽力した杉原以外の日本人についてご紹介します。
根井三郎(ねい さぶろう)
杉原千畝の功績に関する調査研究の中で、その実績が浮かび上がってきたのが、ウラジオストク総領事館の総領事代理だった根井三郎です。
杉原氏は1940年当時、リトアニア領事館領事代理として務めていた際に、ナチスドイツの迫害を逃れて亡命を希望するユダヤ人に自己裁量で日本通過のビザを発行しました。しかし日本外務省は、同盟国などへの配慮から、このビザを所持していてもウラジオストクで再検閲される(日本への入国を認めない可能性が高い)ことを根井氏らに通告しました。しかし根井は「(国際的な信用という見地から)面白からず(好ましくない)」と外務省に電報を打ち抗議し、政府命令に背いて彼らを敦賀港行きの船に乗せた他、ウラジオストクでビザを持っていないユダヤ人難民に単独でビザを発行しています。
根井はその後守秘義務を貫き通し、また近年まで関連する書類なども見つかっていなかったため、長くこのことは一般に知られていませんでしたが、2015年の唐沢寿明主演映画「杉原千畝」により根井の姿が描かれ、初めて彼の偉業が知られるきっかけとなりました。近年その功績が国内外で知られるようになったことで、杉原氏が日本人で唯一受賞しているイスラエルの「諸国民の中の正義の人賞」に根井氏を推薦する動きが高まっています。
この際に、ウラジオストクから敦賀へとユダヤ人難民を輸送する船の手配したのが、旅行会社ジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社:JTB)の大迫辰雄(おおさこ たつお)。JTBは結果的に約1万5千人のユダヤ人難民を輸送し、大迫はその運用上中心的な役割を担いました。大迫の献身的なサポートを目の当たりにしたユダヤ人が、どうして民間人のあなたがそんなに良くしてくれるのかと聞いたところ、「旅行者を安全に目的地に届けるのが私の役目です」と答えたそうです。
小辻 節三(アブラハム こつじ せいぞう)
小辻節三は、杉原と根井が繋いだ運命の線が途切れないよう、ウラジオストクから敦賀へと船で到着したユダヤ人難民を救うために奔走しました。
杉原ビザの期限はたった10日間の通過ビザだったため、やっとのことで敦賀に上陸したユダヤ人難民は一息つく間もなくビザの有効期限という問題に直面しました。実際に次の受け入れ国がないに等しい状態で、10日間で出国することは不可能に近いため、彼らは当時日本で唯一のユダヤ人コミュニティが存在した神戸へ赴き、小辻に協力を要請しました。
小辻はこれを快諾し、外務省にユダヤ人難民の滞在延長を要請したものの取り合ってもらえなかったため、旧知の間柄であった当時の外務大臣である松岡洋右(まつおか ようすけ)に直訴しました。松岡は、南満洲鉄道総裁だった頃に小辻を総裁室へ迎え入れてユダヤ研究をさせており、またイタリア・ドイツと同盟を結んだが、ユダヤ人を殺す約束はしていないと発言するなどユダヤ人に好意的な人物でした。
松岡は、「ビザ延長の決定権を持つ神戸の自治体を説得することができたら、外務省はその決定に口を挟まない」と小辻に約束します。小辻はこれを受け、ビザ発行を担当する警察幹部を説得し、申請一回につきビザを15日間延長する(申請回数は無制限)という許可を勝ち取りました。こうしてユダヤ人難民たちは日本で手厚いもてなしを受けた後、アメリカやイスラエル、上海や香港、アルゼンチンへと無事旅立つことができたのです。
5月22日(日)、第二次世界大戦中に日本でユダヤ人を支援した日本人学者、アブラハム・小辻 節三氏の顕彰式が行われ、@GiladCohen_大使、@ZviHauserイスラエル・日本友好議連盟会長、@AmirOhana議員らが出席しました。 pic.twitter.com/CPxN55kcV9
— イスラエル大使館 🎗️Israel in Japan (@IsraelinJapan) May 23, 2022
2022年には、イスラエル日本友好議員連盟会長のツビ・ハウザー議員と、イスラエルのギラッド・コーヘン駐日大使が小辻の次女、暎子さんを訪ね、小辻の行動を称えて感謝状を授与しました。小辻は、京都の賀茂神社の宮司の家系に生まれましたが、神道からキリスト教へ、その後ユダヤ教に改宗。死後は本人の希望で、エルサレムに埋葬されました。
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