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CULTURE

オスカー・シンドラーの功績

by ISRAERU 編集部 |2023年10月06日

リトアニアの日本領事館領事代理として、第二次世界大戦中カウナスに赴任していた杉原千畝は、ナチス・ドイツによる迫害から逃れようとする多くのユダヤ人に対してビザを発給し、その結果約6,000人のユダヤ人難民を救いました。杉原の発給したビザは「命のビザ」として知られ、その功績から「東洋(日本)のシンドラー」と称されています。


「シンドラー」とは、杉原と同じく第二次世界大戦中にナチス・ドイツの弾圧から多くのユダヤ人を救ったドイツ人実業家、オスカー・シンドラーのこと。今回は、今年(2023年)の10月9日に没後49年のメモリアルデーを迎えるシンドラーの功績について説明します。



シンドラーの生い立ち

オスカー・シンドラーは、1908年4月28日、当時オーストリア・ハンガリー帝国領だったメーレン(モラヴィアとも)地方のツヴィッタウ(現・チェコのスヴィタヴィ)で生まれました。シンドラー一家はカトリックでしたが、彼は宗教に興味がなく、近隣のユダヤ人家族の子どもたちを遊び仲間として育ちました。


多くのユダヤ人を虐殺から救ったというその功績から、正義感が強く清廉な人柄を想像する方も多いかもしれません。しかし若い頃のシンドラーは、なかなか事業が成功しない一方で派手な生活を好み、妻の父親である裕福な農場経営者の援助を受けたりしながら暮らしていました。


ナチス入党

シンドラーは、1935年からドイツ国防軍諜報部の諜報員として現在のチェコやポーランドで活動するようになりました。諜報活動を行う中で、チェコ鉄道内部の秘密情報を漏らしたことが露見し死刑宣告を受けましたが、1938年にドイツがズデーテンを併合したため事態は一転、ドイツによって刑の執行が中止されることとなり命拾いします。


ポーランド、クラクフの街

その後、1939年にはナチス党に志願入党しました。そして戦争での一攫千金を夢見て、ドイツのポーランド侵攻に合わせてポーランドのクラクフに移住したのです。


ユダヤ人救出に至るまで

クラクフに移住したその年、シンドラーはユダヤ人が所有していたが没収されたホーロー容器工場を購入し、ドイツ軍向けの厨房用品の製造で資産を拡大していきます。操業開始から数カ月後には250名、数年後にはユダヤ人370名を含む800名超の従業員を擁する大工場へと成長していきました。


元々政治的な思想は薄いシンドラーでしたが、やがて罪のないユダヤ人への弾圧を続けるナチス党政権に対する不信感を抱くようになります。そして彼は、経済的な成長を追いかけることをやめ、一人でも多くのユダヤ人の命を救うため、自らの財産と命を賭けることを決意します。


オスカー・シンドラーミュージアム。シンドラーに雇用され虐殺を免れたユダヤ人たちの写真。

救出の方法

彼の工場は「軍需工場」と位置づけられていたため、ドイツ軍司令部からも特別な扱いを受けていました。単に利益の大きな仕事を優遇してもらうだけではなく、当時ナチス親衛隊の監督下におかれていたユダヤ人たちを「特殊技能を持つ者」として雇用することができたのです。


シンドラーはその立場を利用し、特別なスキルを持たないユダヤ人を「熟練の金属工」であると偽り、自らの工場に必要な人材として呼び寄せ、強制収容所へ移送されるのを阻止しました。この時、彼が秘書に伝えて口述筆記されたユダヤ人のリストが、映画のタイトルにもなった「シンドラーのリスト」と呼ばれるものです。彼は度々、ユダヤ人を不当に優遇したとしてゲシュタポ(ナチスドイツの秘密国家警察)から事情聴取を受けましたが、それでもユダヤ人を密かに救出することをやめませんでした。


1943年にクラクフのユダヤ人地区が解体され、彼が雇用していたユダヤ人がクラクフ郊外にあるプワシュフ強制収容所に移送されたときも、収容所の所長と懇意であったことから、食料を提供してユダヤ人労働者の生活条件を向上させるよう密かに約束を取り付けるなど、私財をなげうちユダヤ人救済に尽力しました。


シンドラーの執務机

翌年、ソビエト連邦の赤軍がプワシュフに進行したため、すべてのユダヤ人収容施設は解体され、2万人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送されました。この時も、シンドラーは新たに購入した工場で軍事物資の生産をするとして、そのために必要な人材を雇用する許可を得ました。人材の多くはプラシュフ収容所から選ばれ、ユダヤ人700名(うち女性300名)を含む800名が救われることとなりました。また、絶滅収容所へ向かう列車や、収容所からもユダヤ人を助け出しており、没後に発見された資料から、シンドラーは今日の通貨価値にして総額100万ユーロ(≒1億6千万円、1ユーロ160円換算)をユダヤ人救出のために費やしたことがわかっています。


大戦後の人生

戦後、シンドラーは度重なる事業の失敗により資金繰りに奔走していました。するとその噂は彼に救われたユダヤ人たちに伝わり、彼らはイスラエルにシンドラーを招待することにしたのです。こうして彼は、1961年から1974年にドイツで亡くなるまで、エルサレムとフランクフルトで二拠点生活を続けました。没後、亡骸は本人の希望でエルサレムのシオン山にあるローマ・カトリックの教会墓地に埋葬され、今も訪れる人が絶えません。


エルサレムにあるシンドラーの墓。訪れる人が石を積んでいる。

1962年、イスラエルの国立博物館ヤド・ヴァシェムはシンドラーに、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによる虐殺からユダヤ人を救出した人物に贈る称号「諸国民の中の正義の人」を授与しました。彼の勇気と人道的な行動は、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』により世界中で広く知られ、今日も語り継がれています。



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