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CULTURE

イスラエル建国25周年記念式典に参加していた日本人中学生

外交関係の基盤を作るのは人の交流

by 新井 均 |2023年07月25日

今年3月には日イ両国間の定期直行便が開設され、4月末には二国間でのワーキングホリデー協定が調印された。18歳から30歳までの両国の若者は、滞在費用を賄うために働きながら1年間それぞれの国に滞在することができるワーキングホリデービザを取得することができる。日本にとっては31番目、イスラエルにとっては7番目のワーキングホリデー協定締結国となるそうだ。これにより両国の若者は、1〜2週間の観光旅行ではなく、語学や文化を学び地域の生活を経験するなどの様々な体験学習も可能になる。


出典:駐日イスラエル大使館「日本とイスラエル、ワーキングホリデー協定に署名

外国に行くことなど考えもしなかった50年前の学生時代を過ごした筆者にとっては、何とも羨ましい環境が整備されたと感じる。正確な数字を調べてはいないが、駐日イスラエル大使館のお話しでは、イスラエルから日本への訪日観光客は年間3万数千人、日本からイスラエルへの旅行者数はその約半分であったと記憶し、直行便就航は今後この数字を増やしてゆくだろう。インターネットでなんでも調べられる時代になったとはいえ、実際に現地に赴き自分の目で見て体験することの効果は、特に若者にとってはその後の思考や行動に次元の異なる影響を与えると考える。


昨年は日本イスラエル外交関係樹立70周年、今年はイスラエル建国75周年ということで両国で様々なイベントが開催されているが、そんな中で偶然、50年前の1973年にエルサレムで開催されたイスラエル建国25周年記念祝賀行事に参加した日本人女子中学生が居たことを知った。ご本人に当時の貴重なお話しを伺ったので、50年前のイスラエルの様子を少し共有したい。


50年前のイスラエル建国25周年祝賀行事におけるアクロバット飛行

巡礼団の一員として50年前のイスラエルを訪れた日本人中学生

その中学生は聖地エルサレムを巡礼に訪れたキリスト教団体の一人であり、母親とともに巡礼団に参加した。現在のイスラエルは、主にオープンイノベーションを志向する日本企業が先端技術を探して投資するという、ビジネスの相手であるが、当時は何と言っても聖地エルサレムのある国であり、関わりを持った日本人の多くはビジネス関係よりも宗教関係の方々が中心であった。


50年前のイスラエル建国25周年祝賀行事の様子。観客席に日本から持参のバナーが掲げられている

「シェイクスピアを学ぶならイギリスに行く如く、聖書を学ぶならイスラエルに行くべき」という某宗教家の言葉を教えていただいたが、信仰を持つ方々にとっては聖地を訪れることの意味はそれほど大きく、その団体では毎年巡礼団を送り出したそうだ。また、聖書を学ぶために留学生も派遣していたという。日本経済も高度成長の流れに乗ってはいたが、とはいえ、海外旅行はまだまだ一般的ではなく、1ドル360円の固定相場制が変動相場制に移行したのも1973年2月14日である。


日本からの女性は和服正装で参列

巡礼に参加した多くの信者の方々は1ドル300円から270円程度の為替レートを前提にローンで費用を工面し、一大決心をして出掛けるという大変大きな出来事だったそうだ。成田空港が開港したのも1978年であり、当時はまだ羽田空港しかなかった。1973年は2度巡礼団が編成された。毎年巡礼団を送り出していたその団体は、既に一度目の巡礼団を送っていたが、祝賀記念行事に招かれて5月の記念式典に合わせた2度目の小規模な巡礼団を編成したのである。すなわち、その中学生は新学期が始まったすぐ後に10日ほど学校を休んだことになる。


彼らは羽田からバンコク経由でパリに渡り、パリで1泊した後、アテネで聖書に関わる遺跡を巡った後にイスラエルに入った。参加した女性たちは式典やレセプションだけではなく、飛行機に乗る時、イスラエルに到着するときも着物の正装だった。彼女はもう一人参加した中学生と二人で、多くのレセプションで「さくら」の踊りを披露したそうだ。着物を着た日本人中学生二名が披露する日本舞踊はイスラエルの人々に大層好評を得たという。


レセプションで披露されたさくらの踊り

当時の時代背景

イスラエルは1967年に通称6日戦争と呼ばれる第3次中東戦争をエジプト、シリア、ヨルダンなどのアラブ連合と戦った。6月5日に戦いが起こり、イスラエル側の圧倒的優位とともに6月10日に停戦合意に至ったため、6日戦争と呼ばれる。イスラエルは、シナイ半島、ゴラン高原、ガザ地区などの支配領域を拡げることになり、更に多くのパレスチナ難民が生まれることにもなった。


その6年後の建国25周年記念式典は、まだ6日戦争勝利の勢いに包まれており、戦車のパレードもあるパワーに満ちたものだったそうだ。中学生は戦車の通行でガタガタになるエルサレムのアスファルト道路を見て、「この後車が通れるのだろうか?」と心配したという。なお、これはイスラエルにおける最後の軍事パレードであったそうだ。


50年前のイスラエル建国25周年祝賀行事における軍事パレードの様子

また、彼女は6日戦争の功労者、ウズィ・ナルキス将軍夫妻とも会ったそうだ。ただし、同年10月6日には第4次中東戦争が勃発する。ヨム・キプール(贖罪の日)というユダヤ教の祭日に、エジプトとシリアが奇襲攻撃を仕掛けてきたため通称ヨム・キプール戦争と呼ばれる。それまでの3回の戦争とは異なり、イスラエル軍は初戦で大敗した。繰り返された中東戦争のわずかな隙間の時期に比較的穏やかなエルサレムを見ることが出来たのも、中学生は幸運だったと言えるかもしれない。


50年前のイスラエル建国25周年祝賀行事における軍事パレードの様子

もう一点、日本人として忘れてはならないのが、1972年5月のロッド空港(現在のベン・グリオン空港)乱射事件である。PFLP(パレスチナ人民解放戦線)に協力した日本人3名、奥平剛士、安田安之、岡本公三が空港のターミナルで自動小銃を無差別乱射し、26名を殺害、73名に重軽傷を負わせた事件である。死者のうち17人が巡礼目的のプエルトリコ人(アメリカ合衆国籍)、8人がイスラエル人、1人はカナダ人であった。中学生が参加した巡礼団が訪れたのはそのわずかに1年後である。


50年前のイスラエル建国25周年祝賀行事における軍事パレードの様子

日本人テロリストに26名も殺害されたイスラエルの人々が日本人を見る目は大変複雑なものでなかったかと想像するが、幸い巡礼団は暖かく迎え入れられたようだ。同じ聖書をルーツとし、怒りと悲しみも共有した人々だからこそ、かもしれないし、地球の裏側からはるばる建国記念祝賀に訪れた中学生を含む異邦人の貢献もあったかもしれない。このような時代背景の中でも巡礼を続けてきたような人々の築いた相互信頼の上に今の二国間関係は成立していると言えるだろう。エルサレムでの祝賀パレードの熱気に圧倒された中学生は、すっかりイスラエルのファンになったそうだ。


ヘブライ語で右がカフ、左がヘイ。数字の25を意味する

韓国とイスラエルの繋がりからみる日イ関係の今後

あまり知られていないかもしれないが、お隣の韓国、ソウルからはテルアビブまでの直行便が早くから開通しており、また両国間のワーキングホリデー協定も日本に先駆けること10年、2013年に締結されている。個人の単なる想像だが、韓国にはキリスト教徒が多いからではないだろうか。実際韓国とイスラエルとの間では2021年に自由貿易協定(FTA)も結ばれており、現在イスラエルを走るタクシーの殆どは、韓国のヒュンダイか起亜、ないしはチェコのシュコダである。イスラエルでは購入時に少なくとも70%もの税金がかかる自動車に関しては、FTAの存在は大変大きな競争力だろう。


市場規模の相違やバランスの議論もあるだろうが、今後、日イ間でもFTAが成立し、かつてのようにイスラエルで日本車が多く見られるようになれば日本人としては嬉しいことである。このようなこと全ては、きっかけは何であれ実際の人が行き来し、お互いの文化的相違や共通点を肌で感じるところから生まれるのではないだろうか。幸いにして、アニメなどをきっかけにして日本に来てみたい海外の若者は多いようだ。同じように日本人の若者も異国の文化や生活に関心を持ち、積極的に自分と同じところ、違う所を見てほしいと考える。真の多様性はそのような交流から生まれるはずである。



※ 編集部注:文中の写真は、50年前の祝賀行事に参加した当時の中学生ご本人から提供いただきました。