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シンドラーの右腕でスパイ、イスラエルアニメのパイオニアでもあったジョセフ・バウ

娘たちが語る父親の知られざる物語

by Marat GALIMOV |2023年08月04日

テルアビブ中心地のハビマ・スクエアからほど近くに、ポーランド生まれのユダヤ人であるジョセフ・バウ氏の作品などを展示する小さな美術館があります。ジョセフ氏は映画「シンドラーのリスト」で、強制収容所内において極秘に結婚式をあげるカップルのモデルであることでも知られるホロコースト・サバイバーであり、戦後イスラエルを代表するアニメーターでもあります。


ここはジョセフ氏の生前のスタジオで、ポーランドから持ち込んだ手作りのアニメーションやオリジナルの机など、歴代の作品が展示されており、現在は予約制でグループツアーを受け入れています。2002年にジョセフ氏が亡くなって以来、彼の娘たちがこのスタジオを美術館として保存してきましたが、現在立ち退きを宣告され閉鎖の危機にさらされています。


今回は、ホロコースト、アート、アニメーション、ヘブライ語、スパイ活動(!!)と、多岐にわたるトピックに関する大きな物語が詰まったジョセフ・バウ・ハウス美術館の管理者で、ジョセフ氏の娘であるクリラ・バウ氏とハダサ・バウ氏にお話を伺いました。


──ご両親が強制収容所で出会う前の経歴について教えてください。


クリラ:母レベッカは、ポーランドにほど近い現在のウクライナのテルノポリとリヴィウのそばにある、ブディウフという小さな村で生まれました。彼女の父親である祖父は、その村の医師であり獣医でもありました。祖父は母に薬草の使い方を教えましたが、なんと彼が育てていたのは大麻だったのです。彼らは大麻の花から蜂蜜を作っており、最近私たちはその蜂蜜が非常に健康に良いことを知りました。母が亡くなった後、彼女が密かに書いていた日記を翻訳してもらいましたが、翻訳者はその植物がなんだったのか理解できなかったので、インターネットで調べて初めてわかったのです。


その後、母親はポーランドのクラクフに移り住みました。彼女は医学を学びたかったのですが、大戦前はユダヤ人には医学を学ぶことが許可されていなかったため化粧品技師になり、マニキュアやペディキュア、クリーム、香水などの製造に精通していました。


ハダサ:父ジョセフは1920年にクラクフで生まれました。父は戦争が勃発する前には、大学で1年間美術を学んでいましたが、ナチスにより1939年、ゲットー(ヨーロッパの都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区)に移住させられました。そこで父はアートと出会い、アートが彼の命を救いました。ナチスは、父がゴシック文字を書くことができると知り、グラフィックアーティストとして利用しました。ナチスは父とその家族をゲットーからクラクフ・プワシュフ強制収容所に移送し、ゲットーと強制収容所の地図を描かせました。現在、その場所は何もない荒野となっており、誰もその場所に強制収容所があったことを知りませんでした。父の描いた地図がなければ収容所の場所は明らかにならなかったでしょう。


この地図のおかげで父は母と出会うことができ、そして二人は結婚することを決心しました。父は女装して女性用の収容所に潜り込み、母がいたバラックを訪ねて密かに結婚しました。その結婚式の様子は映画『シンドラーのリスト』で描かれています。父自身もスピルバーグ氏に会って、実際に映画製作のために情報を提供しました。


ジョセフとレベッカ・バウの結婚式の写真。
強制収容所にはカメラがなかったため実際に写真はなく、戦後行われた結婚式の写真(左)に囚人服である縞模様を描いたもの(右)。

──映画はどの程度正確に結婚式の様子を描写していましたか?


クリラ:父がどのように母のいたバラックへと潜り込んだのかについて、映画では描かれていませんでした。また、映画ではフッパー(ユダヤ人の結婚式で用いられる天蓋)が登場しますが、父によれば、収容所には十分なシーツがなかったため、実際には使われなかったとのことです。


映画では明らかにされなかった、両親のエピソードを紹介しましょう。まず、母はそのネイリストとしての技術でたくさんの人々を救いました。強制収容所内では靴下もなく、木製の靴を直接履いて足に水ぶくれができるとナチスに殺されてしまう。そこで母は盗んだカミソリでみんなの足の爪を切り、靴下を履いていない人々の爪を整えてあげました。するとナチスの司令官が母の技術に目をつけ、母を強制的に呼び出して自分やその家族へマニキュアを施させたのです。彼は腕の下に銃を置き、「もし私を少しでも傷つければ、この場で殺すぞ」と脅しましたが、母はそれに屈することなく、逆に司令官を殺すために収容所内のユダヤ人コミュニティー長に相談しました。毒を爪の下に仕込んでやろうと画策したのですが、もし彼を殺したら、収容所兄のユダヤ人25,000人全員が殺されてしまうことになると懇願されて毒殺は諦めたのです。


代わりに、その言語的能力で多くの人々を救いました。母は9つの言語を話したため、司令官の企みに関する情報を事前に手に入れることができたからです。しかし、司令官は母が情報を漏らしていると疑い、とても残酷な方法で彼女を罰しました。その結果、彼女は一生涯病気を抱えることとなりましたが、母は最後まで何をされたのか私たちには話しませんでした。


ハダサ:また、父親はゲットーにいた時、ドイツ警察のために働くと同時にスパイ活動も行っており、ユダヤ人地下組織やポーランド地下組織、そしてポーランド警察に情報を提供していました。無私の境地で最後の日まで逃げ出すことなく、文書偽造によって何百人ものゲットーのユダヤ人を救い続けました。私達は3年前に初めて、イスラエルの裁判官から父がオスカー・シンドラーの右腕であったことを知らされました。その裁判官は、ホロコーストにあったシンドラーの工場にいた父の親友の息子さんでした。


──ジョセフ氏は、常にアートを通じて平和に関するメッセージを伝えようとしていたそうですが、詳しく教えていただけますか?


クリラハダサ:例えば、弾丸のネックレスをつけ、弾丸の形をした口紅を持った女性を描いた父の作品があります。そこで、ヘブライ語の言葉遊びを用いて「すべての武器がキスに変わるように」と、著書においてユーモアと論理を交えながら語っています。父は世界で唯一、ヘブライ語の意味を描いたアーティストなのです。


「すべての武器をキスに」:ジョセフ・バウ・ハウス美術館提供

──彼のアニメーションの仕事についてお話しいただけますか?


クリラハダサ:1950年代にイスラエルへ移住した当時、イスラエルにはアニメーションがありませんでした。彼はイスラエルのアニメーション黎明期を支えた人物の一人です。私たちがイスラエルに来たときはお金もなく、ヘブライ語も知りませんでしたが父は自らアニメーションスタジオを建て、すべての機材を揃えました。ヨーロッパやアメリカで既に制作されていたアニメーションに関する本や、手に入るものすべてを使って自分で学習したのです。父がアニメーションで制作した最初の商業用ロゴは今でも映画館で使われていますが、署名をしなかったため、誰もその作者がヨセフ・バウであったことを知りませんでした。当時父はモサド(イスラエルの諜報機関)で働いていたため、署名することが許されていなかったのです。


──ジョセフ氏に関する多くの知られざる事実が明らかになっていますが、彼のモサドとの関わりについてお話しいただけることはありますか?


クリラハダサ:父はスパイのために偽の文書を作成していて、そのためモサドのメンバーが世界中に持つ住居の場所を知っていました。父が亡くなってから2年後の2004年、私たちは国会において初めてそのことを知りました。国会で、父が書いた本のヘブライ語の絵画を展示されたのです。そして、大臣たちが父について話していたのですが、私たちは、大臣たちがなぜ父のことを知っているのか理解できませんでした。するとある方が立ち上がり、父がモサドの主要なグラフィックアーティストであり、スパイのために文書を偽造した人物であることを私たちに教えてくれたのです。


──父親の仕事は、あなた達にどのように影響を与えましたか?


クリラ:父はマンドリンとバイオリンを演奏しましたが、1年ほど前に、ポーランドで作曲家をしていたことがわかりました。ハダサは幼い頃から文字や音楽の書き方を父から教わり、ユーモラスな歌を作曲する能力が身につきました。父にとって、すべての歌は面白くなければならないのです。いつも冗談を言っていて、冗談についての本まで書くほどでした。ヘブライ語、収容所、ホロコースト、テルアビブ、駄洒落などに関する10冊の書籍を執筆し、いくつかの言語に翻訳されています。ハダサはグラフィックアーティストとして働いており、私自身も詩や物語を書いています。以前はマンドリンの演奏もしていました。


──日本の読者のために、なぜ素晴らしい美術館が危機に瀕しているのかご説明いただけますか?


クリラハダサ:建物は私たちの所有物ではなく、現在家賃を払って使用しています。しかし所有者は建物を取り壊すため、私たちに退去するよう通告してきました。世界で最も小さな映画館を建て、すべてのアニメーションを一人で制作した父の功績を私達はこの先も残していきたいのです。この状況を非常に恐れており、皆さんのサポートを必要としています。


そういえば今日、建物の所有者が取り壊しの調査のため地面を掘削しにきました。3時までには終わるだろうと聞いていましたが、5時にエルサレムからツアーを予約した団体が到着したときも、まだ建物は閉鎖されていました。そこで、ベランダを開けて梯子をかけて皆さんと中に入ったんですよ(笑)


ジョセフ氏デザインのシャツを着たクリラ氏(左)とハダサ氏(右):ジョセフ・バウ・ハウス美術館提供

──さすが、ジョセフ氏の血は争えないと感じるエピソードです。最後に、ジョセフ氏の父親としてのエピソードをお聞かせ願えますか?


クリラ&ハダサ:父にとって、最も美しい音楽は笑い声でした。毎日ジョークを言い、私たち家族は父の新しいジョークを聞くのを楽しみに待ったものでした。父は、母が笑わなかったジョークを改良し、母が大笑いするといつも「よし、このジョークはジョーク集に入れることにしよう」といっていました。


──今日していただいたお話は、ジョセフ氏に関するエピソードのほんの一部のように思いました。お二人と、素晴らしい博物館の幸運を心から祈っています。インタビューさせていただき光栄です。ありがとうございました!


ジョセフ・バウ・ハウス美術館の存続への支援やお問い合わせ先はこちら:クリラ・バウ(clilabau@gmail.com, +972-54-4212730


この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:ISRAERU編集部