
3月8日は、女性の活躍を称え、ジェンダー平等を目指す大切な日、国際女性デーです。
そんな特別な日に紹介したいのが、イスラエル初の女性首相、ゴルダ・メイア。彼女は、世界でも数少ない女性国家指導者の一人であり、イスラエル建国にも深く関わった重要な人物。今回は、そんなゴルダ・メイアの人生とその遺産について振り返ります。
差別や迫害を逃れてアメリカへ移住した貧しい少女時代
ゴルダ・メイアは1898年にロシア帝国キエフ(現在のウクライナ)で誕生しました。ゴルダが生まれた時代、ユダヤ人は差別や迫害に苦しんでおり、彼女は自伝の中で、最も古い記憶の一つは、父親が玄関に立ち、迫りくるユダヤ人虐殺(ポグロム)の噂話をしていたことだと回顧しています。
家族は安全で豊かな生活を求め、1906年にアメリカ・ウィスコンシン州ミルウォーキーへ移住。新しい国での生活は決して楽ではありませんでしたが、ゴルダは勉強熱心で、政治や社会問題に強い関心を持つようになりました。特に、ユダヤ人が安心して暮らせる国を作る「シオニズム運動」に惹かれ、やがて「自分もイスラエル建国に貢献したい」という強い思いを抱くようになります。

イスラエル建国への情熱
1921年、23歳になったゴルダは、当時イギリスの統治下にあったイスラエル(パレスチナ)へ夫と共に渡ります。そこで、共同生活を送りながら農業を営むキブツに参加し、厳しい環境の中でイスラエル建国の夢を追いかけながら、労働運動や政治活動に積極的に関与。やがて、イスラエル独立に向けた外交活動を担うことになり、第二次世界大戦後はイスラエル建国のために世界中を飛び回り、資金調達や支援を取り付ける大役を果たしました。
1948年、イスラエルはついに独立を宣言しましたが、その直後に周辺のアラブ諸国と戦争(第一次中東戦争)が勃発。戦争回避のため、彼女はヨルダン国王アブドゥッラーと秘密交渉を試みますが、和平には至りませんでした。この時の経験が、彼女の強い外交姿勢につながっていきます。

外交官としての活躍とその成果
イスラエル独立後、ゴルダはイスラエル初代駐ソ連大使に就任。その後も、労働大臣や外務大臣を歴任し、国の外交政策を形作る重要な役割を担いました。
特に彼女が力を入れたのは、アフリカ諸国との友好関係を築くこと。独立したばかりの国々と協力し、農業などの技術を提供することで、良好な関係を築こうとしました。これにより、イスラエルの国際的な立場を強めることに成功します。
イスラエル初の女性首相誕生
1969年、ゴルダ・メイアはイスラエルの第5代首相に就任しました。これは、当時の世界では極めて異例のことであり、女性が国家指導者となる時代を切り拓く象徴的な出来事でした。彼女のリーダーシップは、強い信念と実行力に支えられており、「鉄の女」と呼ばれることもありました(後に同じ呼称は英国のマーガレット・サッチャーにも使われました)。

彼女の首相在任中(1969年-1974年)、最も困難な時期の一つが1973年の第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)でした。エジプトとシリアが突如イスラエルに攻撃を仕掛けたこの戦争で、イスラエルは奇襲攻撃に関する情報があったにも関わらず初動対応に遅れ、多大な被害を受けました。この戦争の結果として、彼女の政権は厳しい批判にさらされ、最終的に1974年に首相を辞任、イツハク・ラビンに首相の座を譲りました。
ゴルダ・メイアの遺産
ゴルダ・メイアは1978年12月8日にエルサレムで死去しました。彼女の人生は、まさにイスラエル建国とその成長の歴史そのものであり、その功績は今も歴史に深く刻まれています。彼女は、イスラエルの建国、外交政策の発展、女性の社会進出の象徴として評価されています。

イスラエル国内外では、現代でも彼女の名前を冠したストリートや学校、建物があり、書籍や映画などを通じて彼女の人生が語り継がれています。
国際女性デーに寄せて
ゴルダ・メイアの人生は、壁を乗り越え、自らの信念を貫いた物語です。彼女は、「指導者とは、他人に希望を与える人でなければならない」と公言し、まさに自身がその言葉を体現したリーダーでした。
国際女性デーに彼女の物語を知ることで、女性の社会進出の意義や、私たちが目指す未来について再考するきっかけになればと思います。
