3月8日は国連で定められた、「国際女性デー」です。
イスラエルでは、毎年この日には女性をテーマにしたメディアの特集などがあり、一定の盛り上がりがみられます。
ジェンダーは非常にセンシティブで複雑な事柄です。私自身、世界にジェンダーや男女格差に関する問題があることは感じています。でも、それでは世界がどうなれば満足のいく「ジェンダーギャップのない世界」になるのかというと、そのゴールに関しては明確な一つの答えが見出せません。
それでも今回はおおざっぱなくくりで、日本人女性である私が、文化の異なるイスラエル人女性から学んだことについて、お伝えしたいと思います。
「イスラエル人女性」とは
私が抱くイスラエル人女性のイメージを一言で表すと「強い」という言葉になると思います。例えば、女性兵士。若い女の子たちが軍服を着こなし、銃を持ち歩き、戦闘部隊での任務につく女性もいる。一定の地位についている女性兵士が、式典などで新兵たちにビシッ! と敬礼されている場面などを見ると、単純に「うわあ……すごい!」と思ってしまいます。
もしくは宗教的な女性。これは宗教人種にかかわらず強いという印象があります。宗教を人生の重要な価値に据えて生活する一部のイスラエル人は、ユダヤ教徒もイスラム教徒も子だくさんの傾向があります。現代日本で言う「子だくさん」とはケタ違いで、7人8人は当たり前、中には10人以上子供を産む、本当に「桁」のちがう女性もいるのです。そんな女性が子供を何人も産みながらフルタイムの仕事で家族を養いつつ、家事も一手に背負うという人も多く存在するのです。
「どうなってるの? 強すぎる……」と言う他、ありません。
自分の意見を言うことを恐れない女性たち
とはいえ、こういったことは特殊な例でもあります。これが一般的であるというわけではないのです。私が実生活や友人のイスラエル人女性から感じる強さは、また別のところにあります。それは、自分のことは自分で責任を取る、という強さです。
日本人女性の私に言わせると、イスラエル人女性は人前で自分の意見を言うことをまったく恐れない。しかも、周りのほとんどの人が賛成している案にも、普通に「私は反対」と、皆の前で意見を表明できる人たちだ、という印象なのです。
私自身は正直、「みんながこれでいいって言うなら、いいんじゃないかな。皆の反対を覆してまで別の案を進めたいとも思わないし」というような考え方をしてしまうタイプなので、自分の意見をしっかりと表明することのできるイスラエル人女性には、ある種のあこがれがあります。
皆がこれでいいと言うなら……と自分の意見や気持ちに責任を取らず、流れに身を任せるのは楽なことでもあります。でも、流れに身を任せた結果が自分の望み通りでなかった場合、その責任は一体誰がとるのか。
それは他でもない、流れに任せた自分自身なのです。
イスラエル人女性は、この部分をとても意識しているのではないかと思うことがよくあります。自分の意見を主張しないなら、後になって「本当はいやだった」とか「実は別の案がよかった」などと言ってももう後の祭り。鉄は熱いうちに打つもの。反対表明も、決定が下される前に述べれば意見、下された後に述べればただの愚痴です。
「自分の求めること」を知るということ
私は、しっかりと意見を述べる「強い」イスラエル人女性たちを目の前にして、なんとなく周りの状況に流されていく「強くない」自分自身との違いについて、考えました。
そこで思い当たったことは、彼女たちは「自分が求めること」を冷静に、本当によく知っている、ということです。だから周りの人が賛成と言おうとも反対と言おうとも、自分自身はどう思っているかを、はっきりと表現できるのです。
日本では幼いころから周りに合わせることを学びますよね。周りの状況をかんがみずに、自分を中心に意見を述べる人なんて、「自己中心的な人物」として皆から嫌われること請け合い。
特に日本女性は細やかな気遣いができることが美徳とされていますから、自分自身が何をどうしたいかを明確にすることよりも、周囲が何を期待しているか、自分のいる場所周辺がどういう状況にあるのかを察知することのほうが重要であると思われているのです。
これは、私の実体験でもあります。私はそうやって周りに気を使い、気持ちよく調和を奏でているうちに、自分自身がどうしたいかを考えることを忘れてしまいました。
そして最初の「みんながこれでいいって言うなら、いいんじゃないかな。皆の反対を覆してまで別の案を進めたいとも思わないし」というような考え方をする癖がついてしまったのです。
自分の心をないがしろにしない
私がイスラエル人女性から学んだのは、まずは、周りの状況を切り離した状態から「自分のやりたいことを知る」ということです。自分の心に少しでも違和感があれば、「皆もそうだし」とか「これが普通だから」などと自分の気持ちを無視せずに、向き合う努力をするべきです。
そして、それがわかったら次に目を開いて周りを見る。現実につきあわせて、自分のやりたいことを実現するにはどんな課題があるのか、自分がどういう状況に置かれているのか。
「どんな状況であっても自分の気持ちに一直線に従うべき」というわけでもなければ、一概に「周りの状況が許さないならあきらめろ」というわけではありません。少しでも希望を実現させるために、現実的でバランスの取れた工夫をしよう、ということなのです。
正直なところ、私は今でも周りの状況に目を配らなければ、自分の意見がからっぽ、という場合が時々あります。自分の希望そのものが「周囲との調和がとれていること」になってしまったりするのです。三つ子の魂百まで。子供のころから周りに合わせ、調和を保つことを第一に考えてきた習い癖はそう簡単には消えないようです。
現実は
世界には様々な指標を使った「ジェンダーギャップ指数」というものがあります。日本は先進国の中でも順位が低いなどと取りざたされていますが、イスラエルを見てもそれほど順位が高いというわけでもありません。イスラエルだってまだまだジェンダーギャップ問題が山積みだし、一部宗教に関連する社会では男尊女卑思想が激しく残っており、また、一定の民族社会では女性の地位は驚くほど明確に低い場合が多いのです。
さらにはイスラエルの「ウリ」である先進的なスタートアップ界隈でも、男性には大きく開かれた門戸があり、女性にはガラスの天井があることは有名です。
それでも私の知る多くのイスラエル人女性は「それが常識であり、普通ならば仕方がない」とは決して思わずに、自分の理想に近づくために「まずは問題を解決してみよう」と実力を行使するところがあると思います。
ジェンダーに関係なく、自分の理想や希望の生き方を知り、それに向かっていこうとする姿は、私も目標とするところです。
おわりに
先にも述べたように、イスラエルでは世界女性デーで様々なメディアで女性に関する特集がありました。これはあるイスラエルのラジオ局で以前、何年か前の話として紹介されたのですが、世界女性デーの特集番組をつくるために、イスラエル初の女性のノーベル化学賞受賞者、アダ・ヨナット氏にプログラムへの参加を呼び掛けたところ、以下の様な回答を得たということでした。
「あなた方の提案する女性プロジェクトに、私は参加しない旨をお伝えすることを残念に思いますが、性別のみを基準とした分離をお祝いすることに意味はないと思っています。
今後、社会的に有意義なことを祝うプログラムがあるのでしたら、その時にまた参加の是非を考えさせていただきたいと思います。」
私はこの言葉を聞いて、多数の意見に盲目的に追随するのではなく、自分で考えることの重要さを再確認しました。
「国際女性デー」。
世の中に差別があるのは確かで、それを是正すべきは非常に重要なことです。「一つの解」のないこの複雑な問題について、私も考え続け、行動を起こしていければと思っています。
参考文献
ゴルダ・メイール https://main.knesset.gov.il/en/MK/APPS/mk/mk-personal-details/685
アダ・ヨナット「科学を変えた女性たち」
レア・ゴールドバーグ https://www.poetryinternational.com/en/poets-poems/poets/poet/102-3170_Goldberg
ダナ・インターナショナル https://www.instagram.com/danainternational/
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ネタ・バルズィライ https://israeru.jp/culture/music/nettabarzilai/
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