「イスラエルは、コンテンポラリーダンスの最前線」
そう聞いてすぐにピンとくる方は、まだ多くないかもしれません。実はイスラエルは「バットシェバ舞踊団(以下バットシェバ)」や「インバル・ピント&アブシャロム・ポラック・シアター(*1)」など、世界的に高い評価を得ているダンスカンパニーを擁する、コンテンポラリーダンスの聖地の一つ。日本を含む世界中から、多くの才能あるダンサーたちがこの地を目指しています。
そのバットシェバで12年間ソリストを務めた日本人ダンサー、島崎麻美さんは、幼少期からのバレエ経験を糧に10代でヨーロッパへ渡ったのちに、イスラエルで長年にわたり舞台に立ち続けました。現在はイスラエルと日本を拠点に、ダンス指導や創作活動を展開されている島崎さんに、これまでのキャリアとイスラエルの魅力や日本との違い、現在の活動についてお話を伺いました。

目次
イスラエルダンスとの出会いと原点
──まずはご自身のキャリアと、イスラエルを拠点にするまでの経緯について教えてください。
3歳から日本でバレエを習いはじめました。そのバレエ団のつながりで、外国のバレエ団が来日した時に子役として出演する機会にしばしば恵まれたんです。そうしているうちに、外国のバレエ団の人たちがとても楽しそうに踊っていること、また踊り方がぜんぜん違うことに気が付きました。それに対して日本のバレエ界は、みんなが形に沿って踊っている感じが強くて。それで、10歳くらいのときに「どうせ踊るなら外国で踊りたい」と思うようになり、家族も同意してくれたんです。
中学卒業後に渡欧し、モナコのバレエ学校に進学しましたが、ある日モーリス・ベジャールがスイス・ローザンヌにバレエ学校を開くという話を聞いたんです。そこでオーディションを受けたところ運良く合格し、16歳のときにベジャールの学校「ルードラ・バレエスクール」に第1期生として入学することになりました。
──ベジャールの学校は、とても狭き門だと聞きましたが。
そうですね、900人くらい受けて合格したのは27人でした。ルードラではダンスだけでなく、演劇や声楽、剣道も学んだんですよ。ベジャールは、剣道の精神をとても重視していて、剣道を通して規律を教えたかったようです。その後、イタリアやドイツのダンスカンパニーで経験を積み、最終的にずっと興味があったバットシェバのオーディションに合格し、イスラエルを拠点に活動することになりました。以来、約12年間バットシェバで踊ったことになります。

バットシェバとの出会いに導かれてイスラエルへ
──若くしてイスラエルへと移住されましたが、すぐに馴染めましたか?
最初は文化の違いに戸惑うこともありましたが、バットシェバのカンパニー自体も多国籍で、互いの違いを尊重し合う空気がありました。イスラエルの人たちはとてもオープンで情熱的。表現に対する自由と責任が強く求められる環境で、自分自身を深く見つめ直す時間にもなりました。
──バットシェバ時代の思い出で、特に印象に残っているエピソードを教えて下さい。
たくさんありますが、一つ挙げるなら、バットシェバに入団して最初に関わった「モーシェ」という作品。この作品は、歩きながら「モーシェ!」と叫ぶシーンがあるんですが、そのシーンが話題になって。最終的に、文化大臣に気に入っていただき、文化庁のプロモーションに使われることになったんです。
あの頃はイスラエルの文化や芸術がすごく注目されていた時期でしたね。イスラエルのダンス界は本当にすごいんですよ。日本のコンテンポラリーダンスも観ましたが、やっぱりイスラエルの方がエネルギッシュで、人間の個性が強く表れる印象で、自分にとってはとても合っていたと思います。

イスラエルのダンスシーンが与えてくれた影響
──イスラエルと日本のダンスシーンの一番の違いって、どんなところにありますか?
国民性の違いともいえると思いますが、一番の違いは、日本人は「正解」を求めるところですね。イスラエルでは「自分がどう表現したいか」が大事にされるけど、日本では「これが正しい」とか「これができているか」をすごく気にする人が多いです。日本では「みんなと同じようにできること」が評価されがちですが、イスラエルではちょっと違っていて、「自分の考えをはっきり持って、それを表現できる人」が評価されます。
──バットシェバでの経験は、ご自身にどのような影響を与えましたか?
バットシェバの芸術監督であるオハッド・ナハリンの作品を通じて、身体の内側から動くという感覚や、自分の動きに対する意識が大きく変わりました。動きそのものに対して「自分がどう在るか」が常に問われるんです。また、世界中の振付家の作品に触れる機会も多く、さまざまな表現と出会えたことが、今の自分の創作の土台になっています。

バットシェバ退団後の転機と新たな表現活動
──バットシェバを退団後の活動について聞かせいただけますか?
2010年にバットシェバを辞めたあと、すぐにイスラエルのデモクラティックスクール(生徒の意思を尊重する民主的な教育機関)でダンス講師を始めたんです。最初はダンスクラスだけ担当していたんですが、2年目からは担任もすることになって。子どもたちと関わるうちに、教えることの難しさや楽しさを学びました。
活動は順調でしたが、2014年に膝の大怪我をしてしまったんです。前十字靭帯を断裂し、手術を受けました。スポーツ選手が受けるような手術で、リハビリにもすごく時間がかかりました。
──ダンサーとして、大きな試練のときを過ごされたと思います。
そうですね。結局、復帰できたのは2021年くらいだったので、7年くらいまともに踊れなかったんです。でも、その間にも色々な経験をして、今はまたダンスに戻ってきたんですよ。2018年には、イスラエル人映画監督ラン・スラヴィンの作品『夢の募集 〜CALL FOR DREAMS』で主役のエコ役を演じ、ヨーロッパ自主映画祭で最優秀女優賞を受賞したのは特別な思い出です。
イスラエルから祖国へ、そして新たな創作への挑戦
──現在は、日本に拠点を移されたのですか?
数年前から、イスラエルと日本の2拠点で活動をするようになりました。現在は、子どもから大人まで、さまざまなレベルに合わせたバレエやコンテンポラリーダンスのクラスを教えています。これまでの経験をもとに生み出した「エッセンシャルムーブメントクラス」では、ダンス経験のない方でも自然に身体を動かしながら、日常の言葉や出来事を動きで表現する方法を伝えています。
また、彩の国さいたま芸術劇場のプロジェクト「カンパニー・グランデ」に、クリエーションチームの一員として現在参加しているんです。カンパニー・グランデは、年齢、性別、国籍、障がいの有無、プロ、アマ、などの垣根を越えて、様々な創造性をもった人々が集い、そこから生まれる表現を探求することを目的としたカンパニー。
メンバーそれぞれが自分の人生や日常からアイデアを持ち寄り、ここでしか出会えない仲間とともに感性を磨き、表現の幅を広げながら、未来へとつながる新しい創作のあり方を模索しています。
イスラエルで得た視点で紡ぐ表現
「イスラエルで学んだのは、表現の自由とは自分を解放することだけでなく、その自由に責任を持つことでもある」と語る島崎さん。彼女の中に息づくその精神は、教育や創作を通して次の世代へと受け継がれていきます。島崎さんの、表現者としての旅の続きから目が離せません。
*1:現在、インバル・ピントとアブシャロム・ポラックは別々に活動している
島崎麻美さんプロフィール

東京出身。ダンサー、振付家、女優、教師として国内外で活躍する。3歳からバレエを習い始め、16歳で渡欧する。92年から2年間モーリス・ベジャールの学校 ”ルードラ”の第1期生でダンス、演劇、声楽、剣道などを学ぶ。”ルードラ”を卒業後、イタリア、ドイツのカンパニーを経てバットシェバ舞踊団のソリストとして12年間在籍、オハッド・ナハリンの数多くの作品に出演する他、ウィリアム・フォーサイス、シャロン・エヤル、山崎広太をはじめ世界各国の振付家の作品に出演。
現在は子供から大人まで、様々なレベルに適したバレエとコンテンポラリーダンスのクラスを教える。また、自身の豊かな経験を元に作られた”エッセンシャルムーブメントクラス”ではダンスの経験がなくても自然に身体を動かし、日常の言葉や出来事を動きで表現するメソッドを伝達する。
主演映画
Call For Dreams – 夢の募集(2018年/長編映画)
監督:ラン・スラヴィン(イスラエル)
主役エコ役
ヨーロッパ自主映画祭で最優秀女優賞受賞。