今回のインタビューはエラン・ファインさん。イスラエルのヒットテレビ番組の制作に携わる一方、ハイテクやサイバー分野で数々の企業を立ち上げてきた連続起業家(シリアルアントレプレナー)としても知られています。日本との関わりも深く、長年にわたり両国のビジネスや文化交流に携わってきました。

日本の話から始まったインタビュー
インタビューに指定された、テルアビブの閑静な住宅地の一角にあるカフェでエランさんを待っていると、人懐こい笑顔で近づいてくる普段着姿の男性。それがエランさんでした。エンターテイメント業界でも役者というわけではないので写真や映像などはあまり多く出回っている方ではありませんが、技術系のビジネスニュースで何枚かの写真を拝見したことがあります。ちょっといかつい雰囲気で、複数の肩書も相まって、厳しそうな方かも知れない、と勝手な想像をしていました。けれどお会いして一瞬で、その自然で温かみのある笑顔に引き込まれ、写真からの近寄りがたい想像は消え去りました。
「日本から最近もどってきたばかりなんだ、ちょっと日本の話をさせてもらってもいいかな?」
とても礼儀正しい落ち着いた立ち居振る舞いながらも、日本について話をする嬉しさが収まりきらない様子です。
「もちろんです。日本のどこに行かれたのですか?ぜひ聞かせてください」
インタビューの質問リストにはなかった質問ですが、エランさんがどんなふうに日本を見ているのか、知りたくなって聞いてみました。
お話を伺って驚きました。エランさんの日本との付き合いがあまりにも深く、日本人の私の方が日本についてエランさんからいろいろなことを教えてもらうという状態に。北海道の北端にある宗谷岬や、知床半島の東側、根室海峡に面した羅臼町での体験、20年近く前、奈良にあった日本とイスラエルの会社のミーティングのから考察する文化の違い、日本の少子化と高齢化に関する現状、おすすめの観光場所とそこへの交通手段…。内容は多岐にわたります。
意外な展開が繰り出される楽しいお話に、気づけばこの夏休みにでもちょっと日本に帰ろうか…その時はエランさんお勧めのあそこを訪れてみようか…などと、私は思いをめぐらし始めました。

日本とのビジネス 実践で学んだ文化の違い
エランさんが初めて日本を訪れたのはビジネスのためだったと言います。その時の日本の思い出をエランさんはこう語ります。
「ひどいものだった。自分はあそこで何が起きているのか、何をやっているのか、何も理解できなかった。日本企業の人達も何人かいた。でも誰が一体誰なのか、どんな役職なのか、それすらもわかっていなかった。覚えているのは夜中の2時にカラオケに行ってそこにヘブライ語の”キブツを離れる人のバラード”という知っている歌があったからそれを歌った、という事だけ。なんでそんな歌が日本のカラオケにあったのかもわからないし、ビジネスの面では何の進展もなかった」
そして日本とのビジネスでの、もう一つの苦い思い出。
「本当にこれは単純な間違いだったのだけれど、出してはいけない情報をある人に送ってしまったことがあるんだ。これは悪気も何もない、僕の単純な間違いだった。それで、あれは僕にとって一番つらいフライトだったんだけれど、16時間飛行機に乗って、謝罪するためだけに日本に行った。そして、最終的には相手は僕の謝罪を受け入れてくれて間違いを許してくれた。共に新しいぺージを開いてまた一緒に歩もうと言ってくれた。でも、あれは本当につらいフライトでした。」
と、失敗談も包み隠さず話してくれるエランさん。
日本とイスラエルとではビジネスのやり方が違うのだとわかった時のことについて。
「日本のビジネスは非常にコンセンサスが重要視される。スピードも異なる」とエランさん。
けれど「ビジネスのやり方が違うという事はわかった。わかったけれど、だからといってその異なるやり方にすべて賛成するというわけではない」とも言うのです。
相手を尊重しつつも流されない芯の強さを垣間見ました。

Noと言わない好奇心
北海道の小さな町で宿のオーナー一家と過ごした思い出、日本企業との思わぬ失敗談、日本の優秀な技術者たちとの交流…。エランさんの話はどれも意外な展開ばかりで、聞いていて飽きることがありません。
どうしたらそのような多くの体験をすることができるのか、それはエランさんがもっているたくさんの成功した肩書に通じるところがあるのか、その秘訣は何なのか、私はそんな質問をエランさんにぶつけてみました。
「まず、肩書は多く見えるかもしれないけれど、要約すればそれは2つで別にそれほどたくさんのことをやっているわけではない。それに成功したかどうかはまた別の話」というエランさん。
「それでも、僕はまずNoとは言わないようにしている。そして好奇心。これが僕を引っ張っていっていると思う。」
その言葉を聞いて腑に落ちるものがありました。
これはエランさんが羅臼町に滞在した時のお話です。お世話になっている宿のオーナーととても仲良くなって、エランさんはイスラエルの家庭料理シャクシューカを毎日作って子供達が行く学校に届けたところ、皆とても喜んで食べてくれたそうです。
その後、他にも何か作れる料理はあるか?という話になり、バジルを使ったパスタ・ペストを作れると言ったはいいけれどたまたまその村では松の実やバジルなどの材料が手に入らなかった。すると、宿のオーナーが車で1時間もかけて街に出て材料を買ってきてくださったそう。それでエランさんはパスタ・ペストを作り、また皆が食べてくれたんだと嬉しそうに話すのです。

人に対する好奇心、No.と言わない生き方、一方通行にならない対等で尊重し合う関係。それがエランさんの自然体なのだと、納得がいった気がしたのです。
旅する少年の夢
多くの肩書を持つエランさんですが、子供の頃の夢は何だったのかと聞いたところ、こんな答えが返ってきました。
「子どもの頃、お母さんが読んでくれたのは、イスラエルで世代を超えて親しまれているナフム・グットマンの児童文学『ルーベングルー王の国で(בארץ לובנגולו מלך זולו)』という本だった。遠い世界への旅と冒険を描いたその物語を聞きながら、僕は大きくなったら世界中を旅したいと思うようになったんだ。そ
して僕は映像にも興味があった。自分で映写機を作って懐中電灯で光を当てて、手作りの動画をつくったりした」

夢を実現させ大人になった今、子供の頃の夢の中で生きているエランさん。
それがとても自然体ですが、そのための努力は決して惜しまないという事が話の端々に感じ取れます。自分から「こんなにも努力した」などとは吹聴しませんが、お話の端々に「それは努力したからこそだろうな」と思わされる部分があるのです。

一緒に新しいものを生み出す
エランさんのお話を聞いていると、必ず相手がいて彼らもイキイキとしていることに気づきました。自分が一人で何をやったのかの話ではないのです。そして善悪を決めつけることもなく、だからこそ事実が実感として聞き手の私にも迫ってきて、本当に興味深いのです。
日本の技術力について話していても、イスラエルのスタートアップについて話していても、一方が教え一方が学ぶ、一方が売って一方が買うという発想ではありません。互いの強みを持ち寄って、新しいものを生み出していく。そんな未来を思い描いているように感じたし、実際に彼は何度もそう口にしました。

日本の高齢化についても話しは及びました。エランさんは日本人の私が行ったこともない、また多くの外国人旅行者はまず行かないだろうと思われるような日本の各地を旅しました。そこで、本当に空っぽになってしまった集落も見たといいました。
彼は東京、京都、大阪…そのほか、有名な観光地だけを回っていたのでは知り得ないだろう日本の現実も見ている。
そして、日本の技術者との深く長い付き合い。
「日本は素晴らしい技術大国だった。今も日本にはものすごく卓越した優秀な技術者たちが多くいる。でも、日本はすでにここ何年も技術立国という立場ではない。これには経済の問題や、社会全体の少子高齢化などが深く関係していると思うけれど、どちらか片方だけが教えるとか、売るとかでなく、日本とイスラエルは協力し合って行くことで、日本もまたその持っている技術力を生かした技術大国に戻れるのではないかと思っている」そういいます。
これからの事
「少し日本の話をしてもいいかな」
そうやって始まったこのインタビュー。振り返ってみると、本当に日本の話ばかりしていたような気もします。日本は私の母国ですが、エランさんの体験を通して聞くと遠い国のドキドキする冒険物語を聞いている気持ちになるのです。幼い頃お母さんが読み聞かせてくれたという「ルーベングルー王国」の物語を思い起こさせます。

エランさんは現在、日本とイスラエルをつなぐ新しい冒険に取り組んでいると言います。どんな冒険が繰り広げられるのか、続きを知るのが待ちきれない。そんな思いです。
好奇心を持ち続けること。
違いを恐れず、一歩踏み出してみること。
相手を尊重しながらも、自分の信じるものは曲げないこと。
もしまた機会があるのなら、エランさんの冒険のお話を聞かせてもらいたい、そんな気持ちになったのでした。


