テルアビブのディゼンゴフ通りで、81年間にわたって変わらない料理を提供し続けてきたレストラン「 Kiton キトン」。シュニッツェルやクネイドラハ、ゲフィルテ・フィッシュなど、東欧系ユダヤ料理の味とともに守られてきたのは、故郷を失った人々を迎え入れる「家」のような場所でした。イスラエル建国前から街の歴史を見つめてきた店は今、4代目への継承という大きな岐路に立っています。

変わらない料理、変わり続けるテルアビブ
同じシュニッツェルを揚げ、同じスープを煮込み、同じマッシュポテトや肉団子を作る——。周囲では数え切れないほどの店が開業し、やがて姿を消していきました。世代も流行も変わりましたが、キトンは同じ場所で、同じ家族によって、同じ料理を提供し続けています。
キトンで守られてきたのは、レシピだけではありません。「レストランは一つの家でもある」という考え方も、81年間変わることなく受け継がれてきました。
その歴史を記録した書籍が、創業81周年にあわせて出版されます。物語は1930年代のポーランドから始まり、現在、店の将来を託されようとしている4代目へと続いています。
ポーランドからテルアビブへ
創業者のサラとツヴィ・ローゼンバーグは、1935年、それぞれ別々にポーランドから当時のパレスチナへ移住しました。サラはまだ20歳。財産もなく、現地の言葉も話せず、知り合いもいないなかでの新生活でした。
幼くして母親を亡くしたサラは、子どもの頃から料理を身につけていました。移住後はベン・イェフダ通りのカフェでウエートレスとして働き、その後、家庭や飲食店で料理を作るようになります。南テルアビブで自動車修理工場を経営していたツヴィとは、サラが働く店で出会い、やがて二人は結婚しました。
1938年には一人娘のヘドヴァが誕生します。翌年、夫妻は娘をポーランドに残る家族へ会わせるため、帰郷を予定していました。しかし、ヘドヴァが重いインフルエンザにかかったため、渡航は中止されます。
結果として、その出来事が3人の命を救いました。ポーランドに残った家族は、ホロコーストを生き延びることができなかったのです。
失われた故郷の味を求めて
1945年、夫妻は当時「テルアビブのパリ」とも呼ばれていたディゼンゴフ通りで、小さな売店を借り受けました。当初は炭酸飲料やアイスクリーム、スイカ、サンドイッチなどを販売していましたが、サラはやがて、故郷の味を再現した料理も作り始めます。
クネイドラハのスープ、クレプラハ、ゲフィルテ・フィッシュ、刻みレバーなど、東欧のユダヤ家庭で親しまれてきた料理です。
最初は近所の住民だけだった客も、次第に増えていきました。作家や詩人、芸術家、そして故郷の味を懐かしむ東欧からの移民たちが集まるようになります。人々が求めていたのは、食事だけではありません。失われた世界の記憶を、味覚を通してもう一度感じることでした。
キトンは、やがてホロコーストを生き延びてイスラエルへ渡ってきた人々の拠り所にもなりました。仕事や温かい食事、ときには悩みに耳を傾けてくれる相手を求め、新たな移民たちが店を訪れました。国そのものがまだ歩み始めたばかりの時代、キトンは、すべてを失った人々に帰属意識をもたらす場所だったのです。

建国の瞬間を見つめた店
1947年11月29日、国連でパレスチナ分割決議の採決が行われた日には、客たちが店のラジオを囲みました。話題はただ一つ、「自分たちの国は誕生するのか」ということでした。
翌年のイスラエル独立宣言の日、人々はダヴィド・ベン=グリオンの演説に静かに耳を傾けました。その直後、第一次中東戦争が始まります。
それ以来、テルアビブが砲撃や空襲警報に見舞われた日も、キトンは営業を続けてきました。湾岸戦争、コロナ禍、2023年10月7日以降の戦闘、そしてイランとの戦争の最中にも、その姿勢は変わりませんでした。
「警報が鳴っていても、キトンは開いている」。それが、創業者の孫であるオルナ・ラスキンが受け継いできた店の信念です。
芸術家たちが残した「食事の代金」
キトンは、テルアビブの文化史とも深く結びついています。近くには、作家や詩人、画家たちが集った伝説的なカフェ「カシット」がありました。芸術家たちは朝をカシットで過ごし、昼になるとキトンへ食事にやって来たといいます。
なかには、食事代を払えない人もいました。そこでツヴィは、代金の代わりに店のゲストブックへ絵や文章を残すことを提案しました。そうして集まったイラストや献辞、思い出の数々は、今では店とテルアビブの文化史を伝える貴重な記録になっています。
3世代の女性が守った店
一人娘のヘドヴァは、当初、店を継ぐ予定ではありませんでした。両親に勧められて教職を学びましたが、ある祝日に店を手伝ったことをきっかけに、そのまま働き続けることになります。

ヘドヴァの娘オルナもまた、店を継ぐつもりはありませんでした。看護を学び、集中治療室の看護師として働いていましたが、1999年に母ヘドヴァが60歳で亡くなったことで状況が変わります。
祖母サラにこれ以上の悲しみを与えたくないと考えたオルナは、「1年間だけ」と決めて店を手伝い始めました。その1年は、すでに27年になっています。
オルナは当初、店に新しい風を取り入れようとしました。しかし、客たちは変化を望みませんでした。何十年前と同じ味を、同じ皿で、同じ空間の中で食べることこそ、キトンの魅力だったのです。

4代目に託される「選ぶ自由」
現在、オルナの娘であるダナとガルが、ときどき店を手伝っています。しかし、オルナは二人に店の歴史を背負わせたくないと考えています。
デジタルノマドとして暮らすガルは、現代的な生き方と家族の伝統との間で揺れています。常連客からは「絶対に閉めないでほしい」と頼まれる一方、母オルナが娘に与えたいのは、店を継ぐ義務ではなく、自ら選ぶ自由です。
店を受け継ぐのか、それとも81年間続いた物語に区切りをつけ、新しい人生を歩むのか。キトンでは今、それぞれの世代が向き合ってきた問いが、再び4代目に委ねられています。
*本記事はイスラエルメディアynetの報道をもとに構成しています。


