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ナイフと欲望の上で|エヤル・シャニと、夢精、トマト、そして地中海料理のキッチン

by As Promised Magazine |2020年07月08日

エヤル・シャニのポートレート

ビジネスとして、また自身の楽しみのため、エヤル・シャニが彼の人生を賭けた仕事の重なり合ったメカニズムを語ります。


―――エヤルさん、こんにちは。今エヤルさんにとって最新のトピックとは何ですか?


エヤル・シャニ氏(以下:エヤル氏):そうですね、まず、世界中の料理業界で起こっている事について取り上げましょうか。二つあります。


一つ目は、地球全体に目を向けた時、地球温暖化の問題が、私たちの使う食材に非常に大きな影響を及ぼすだろう、という事ですね。熱と乾燥と放射能の影響で、この先20年くらいで、どんな作物も土の上では作れなくなってしまうのではと危惧しています。今後、自然に栽培される作物はどんどん減っていってしまうでしょう。


二つ目です。最高の食材は「スーツを着た」限られた人々だけに供されるという状況の中、これらの食材がミシュラン3つ星レストランだけに囲い込まれてしまっている、という現実です。過去数年間でこの傾向は広まりを見せており、食材を取り巻く状況を変えつつあります。「食べ物」は「経験」となり、それゆえに全く新しいオーディエンスを生み出しています。


―――何をもってして、これは料理にとっての良い食材だ、と言えると思いますか?


エヤル氏:「良い食材」とは、常に時間をかけ、場所を選び、優れた生産計画のもとで作られた、その各地域の地場産の食材だと思います。フランスでは、マカロンがお菓子の世界を壊してしまいましたね。きれいな焼き色のついたタルトが、お菓子の風味とスタイルを持った一種として家庭に入り込んできたわけです。この色とりどりのコレクションに侵食されて、フランス人の台所からは、料理の基礎となる技術が失われてきているんです。日本でも、ニューヨークでも、食べ物をこのようにしてごまかしていく事が、料理という行為に取って代わってしまっているのではないでしょうか。


―――料理業界では、料理の見た目と味の関係に関する議論が盛んに行われていますが、あなたご自身は、料理の見た目は美しくあるべき、と考えますか?


エヤル氏:料理のドレスアップなどは、必要なこととは思えません。なぜなら、料理の美しさは、「どう飾り付けるか」で生まれるものでなく、いかに素材を忠実に表現するかにかかっているからです。もし食材の中に偽りの現実を仕込んだとしても、そんな食材の中にもまだ、しっかり自己主張する本質は残っており、それを使う人間によっては、しっかりとしたその実態と素晴らしい美しさを見出すことができるのではないでしょうか。

もし、魅力的な料理を作りたいならば、まず食材自体を平準化する必要があります。今日、葉物野菜は、紫外線を当ててニワトリのように育てますね。これを初めて見たとき、最初は美しいとも思ったのですが、それは自然の摂理に反する事だとすぐに思い至り、自分自身に相当苛つきました。


エヤル・シャニがトマトをつぶす様子

―――外見だけの美しさと、本当の美しさの違いを教えてください。


エヤル氏:もし、外面的でかつ人為的に変えられる美しさ、というものがあったとしたら、それは美しい、と解釈できるでしょう。でも私は、それが食材にとって良い事とは到底思えません。知識は美意識を劣化させます。そして同時に、今日において「外に向かった美学」と呼ばれるものは、食材の中に存在する知識を劣化させてしまうのです。


長い歴史を通じて、私たちは様々な料理を生みだしてきました。でも、現代においては、そんな新しい料理への探究心はなくなってしまったように感じられます。それは多分、調理という行為が、食材の内面にしっかり入り込んで行わなければならない創造的行為だからでしょう。この世界がこれ以上新たな食材を生み出せるとは、私には到底思えません。


確かに、今もまだ新たな食材が生み出されている遥かなる地は存在します。例えば、北欧のキッチンなどはそれに当たるかもしれません。そこからは、大きな声が聞こえてきます。なぜなら、食材の外側に存在する巨大な海の中にほんの僅かに浮かぶ、とても細い光線だけを頼って、料理人自身が種を料理へと成長させるからです。


―――地中海料理は何に基礎を置いているのでしょうか?私自身、その言葉の持つ地理的な意味合いと、国家としてのイスラエルを区別しているのですが。


エヤル氏:イスラエル社会を見る事で、その食べ物を知る事ができますね。イスラエル人はルーツを持ちません。もちろん、過去にはありましたよ。しかし、それを私たちは意図的に外してきたのです。イスラエルの文化を新たに作る、という希望を持って、セファルディとアシュケナージの(訳注: 言い換えれば、古来からあるユダヤの)ルーツを断ち切ってきたのです。イスラエルには何年にも渡って地場の料理というものはありませんでした。


フードジャーナリストで料理かのルート・シルキスがイスラエルに移り、「くるみ団子 ( walnut rolled balls )」のような変種の食べ物を作り出すまで、イスラエルのメニューはすべてどこかからの借り物でした。しかしその後、多くのホテルでもユダヤ教の戒律に沿ったフランス料理を出すようになりました。これはしかし、ほぼ「ミッションインポシブル」の話でしたね。フランス料理は、ユダヤの戒律からは世界で一番かけ離れた料理手法だからです。しかし、このイスラエルという国家を存在させていくためには、私たち自身の料理か必要なんだ、と私が気付いたのはこの時です。


イタリアにはイタリア料理があります。南アメリカ料理、フランス料理、日本料理、中華料理、インド料理、メキシコ料理、全ての国には、独自の料理文化があります。でも、イスラエルやアメリカ合衆国のような新しい土地には、それが存在しないのです。


―――では今はどうなんでしょうか?何がイスラエル料理の誕生にとって大きなきっかけだったのでしょう?


エヤル氏:イスラエル料理とは、日本の鮨に使われる海苔で包まれたウィーン風カツレツなんです。そこには何も神聖な要素はありません。私たちを取り巻く自然を取り込むと共に、その環境に大きな影響を受けている、そんな料理です。開発の途上では、ちょっと不甲斐ない結果となってしまったことも多々ありました。しかし最後には、この地の、変わることのない柔軟な環境で育まれ、世界でもトップクラスの素晴らしい料理に昇華されたのではないかと思います。夜中にイスラエル料理のレストランに行ってみてください。そこで出される料理で、ああ、今自分はイスラエルにいるんだ、と感じる事ができるのではないでしょうか。確かにそれは欧風料理やアメリカ料理をアレンジしたもので、地中海料理を名乗るのは、少しおこがましい気もします。私たちはギリシャ料理やトルコ料理をそのまま取り入れようとは思いませんでした。ただ、究極の選択として、私たちのエリアに密接した地中海周辺の料理を取り入れるほか、私たちイスラエル人には選択肢はありませんでした。


―――イスラエル料理は、イスラエル人自身にとって、誇れるものだと思われますか?


エヤル氏:もちろんですよ。その制作過程にも誇れるものが沢山あります。料理というものは輸入できるような代物ではない、ということを認識したその時から、私たちの周りにある食材を使って作るイスラエルのキッチンは、世界に誇れるものになったと言えるのではないでしょうか。


地中海料理は、野趣に溢れた素早い調理法が有名です。火加減、揚げ加減、塩加減、新鮮なハーブ、少なめのスパイス、そういった要素は全て、素材そのものを活かす、という目的で使われます。そこには、長年に渡って使われ続けてきた年代物のソースのようなものはありません。


フランス料理には、骨と野菜とワインで2日間煮込んで作るようなデミグラスソースが使われますね。そこに新鮮な食材を用意して、このソースをかける訳です。しかし私たちは違います。私たちの使うソースは、新鮮なタヒニ胡麻や、ヨーグルト、トマトの種、オリーブオイルといった自然そのものの素材です。


―――ところで、タヒーニ胡麻というのはどこから来たものなのでしょう?


エヤル氏:タヒニ胡麻はトルコ原産ですね。


エヤル・シャニがトマトを握る

―――いつ頃イスラエル独自のものになったのでしょうか?


エヤル氏:私が料理を始めた頃、アラブレストラン以外で初めてタヒニ胡麻を使ったのは私ではないかと思いますよ。


―――ところで、あなたの発言からは、現代のイスラエル料理はアラブ料理をベースを置いている、という主張が感じられますね?


エヤル氏:その通りです。しかし、その本質的な部分は、相当な進化を遂げたものと言っていいでしょう。持続させることは、様々な物事を適用させていくことです。芸術と同様に、料理とは想像力を進化させていくものです。生き残っていくためには、変化していくことが必要です。芸術同様、その進化の一つ一つの過程は、そのすぐ下の層に存在する過去の過程をベースに形作られていきます。


私の経営するHaSalonというレストランは、世界でも屈指のパレスチナ料理店だと自負していますが、私自身はパレスチナ人ではありません。でも、パレスチナ料理を作ることはできるわけです。私が、私の目指す料理を作るための基礎を考案し始めた時、イスラエルで唯一私にインスピレーションを与えてくれた場所は、エルサレム旧市街にある、ダマスカス門近くのアラブレストランか、Simtat HaBadim通り近くのハマスくらいでした。しかしそこは、新たな地中海料理を創造していく上で必要な、あらゆる知識の宝庫でもありました。私の料理手法は、とどのつまり、地中海と中東の間に橋を渡すようなものだと思っています。全てはそこから始まったのかって?そう、その通りです。そこには、タヒニ胡麻があり、羊肉があり、オリーブオイルがあり、シロザ (Wild Spinach) やウシノシタグサ (Anchusa) やRigla (訳不明)のような冬野菜がありました。まぎれもなく私たちはそれらの食材に注目し、そこから刺激を受け、その地域全体を変革していったのです。現代のパレスチナのコックに新しいマクルバ料理を考案させることはできません。なぜならそれは、自らの「お母さんの味」を捨ててしまうことになるからです。しかし、根無し草である私たちにはそれが可能なんです。


―――あなたはシェフですか?それともコック?


エヤル氏:さあ、どちらでしょうね。アメリカでは、シェフと呼ばれました。でもそれはちょっと違和感がありましたし、人々からあえて遠ざかれて置かれているような感じを受けましたね。


私は、皆さんが私の料理を味わってくれることで、皆さんと繋がりたいと常に思っています。私は地平線に向けて料理を作ります。その地平線には、40億人もの女性が私と恋に落ちたいと思っていると思いたい。これまでにも、私の調理は様々な方からの視線を浴びてきました。誰もいない場所で料理をしたことはこれまで一度もありません。人々に見られていることを意識することで、料理が形作られていくのだと思っています。なので、レシピそれ自体にあまり重きを置いたりはしません。人に見られて調理をする、ということ自体が非常に重要なレシピの一部だと考えているからです。ただ、人々がそうやって送ってくれるエネルギーを、どう紙に書いて表現していいかわかりません。ただそんな訳で、「人の目」によって生まれるエネルギーが考慮されていない、という点で、ほとんどのレシピは不完全なものだと思っています。


―――料理器具に関して教えてください。どんな器具をお使いになているのでしょうか?


エヤル氏:まずはナイフ、でしょうね。ただ私はナイフを単なる道具とは思っていません。それは私の魂の延長なんです。食材に込める私の魂でできることは二つあります。火にかけるか、形を切り揃えるか、です。


火は神に属し、大自然の偉大な力でもあります。またナイフは、私自身の欲求でもあります。私のキッチンは、ナイフと炎の煌めきの間に存在する空間、と言ってもいいでしょう。かのポール・ボキューズの発言にこんなものがあります。「すべてのシェフが持っているもの、それは、火とナイフと作業場だ。」この3つが無ければ、私たちには何もできることはありません。


―――なんで料理するのでしょうか?何が動機となって料理に打ち込んでいるのですか?


エヤル氏:料理に打ち込むということは、即ち、自分自身の行動を変えていくことだと思っています。料理をすれば、必ずそこには小さな発見があります。その発見を続けていくことで、食べ物の中にある大きな発見につながっていくことができるのです。それはほとんど自分を変えていく経験に他ありません。


この宇宙の流れを感じるような、そんな発見への欲求は、祈り、瞑想、そして食べ物によってもたらされます。こんな発見を一度でも経験すれば、もう、その人生を賭けてでも努力を続けようという気になるものです。これが私たちをキッチンに閉じ込めてしまう理由ですね。そうやって、お客様のために料理をする、という少なくとも少しは分別ある行動ができるようになるのです。そうなればもう、そこに囚われたも同然。私はもう、普通の人生では満足できません。遅くまで仕事をこなし、世界中を旅して回るそんな人生でしか生きていけないでしょう。


私は、私の内なるものを出していくべく、料理をしています。そう、お客様は、料理を食べに来るのではありません。料理人の内から湧き出るエネルギーをもらいに来るのです。


―――レストランが閉店すると、コンピューターの前でよく火を付けてらっしゃいますね。何をその火で燃やすのでしょうか?私には、夢精と悪夢、という両極端の中を行き来しているようにしか見えないのですが。


エヤル氏:悪夢と夢精の間、ですか。まあ、まさにその通りですね。言い当てていると思いますよ。夢と失望のはざま、と言ってもいいでしょう。


悪夢は、まさにレストランで提供する味を、どうビジネス上で管理するかという話です。味というのは、本当に壊れやすく、神秘的で、スターたちの献身や団結によって保たれるものです。それをなんとかマスターしようと、報われない努力を続けるのです。全ては現実であり、挑戦はいかに美味しい料理を作るかにあります。その料理を作り、お客様の口に載せ、そこからお客様の体に染み渡らせていくことで、食べ物は悦びを創り出します。私が料理を作るお客様は、私のエネルギーを吸収し、そのエネルギーは家に帰ってからもお客様の中を流れ続けるでしょう。それは私のエネルギーだけではありません。私の意思、私の成功、私の失敗までもお客様の中に残っていくのです。私の情熱は、人々とつながっていくことにあります。それはまさに、オスとしての種が、できる限り多くの機会を見つけて、自分の種子をさまざな場所に植え付けていく、男性としての本能的な行為そのものかもしれないですね。


―――ところで、トマトですが、これは何を象徴しているのですか?


エヤル氏:トマトは太陽を表しています。それは、太陽を支える血管でもあります。もし冷蔵庫などに入れてしまうと、自分自身で崩壊して、恐ろしい死を迎えてしまいます。


トマトの植物学上の定義は、木に実る果物、というものです。しかしトマトの遺伝子研究者は、それを野菜と呼びます。それはまさに、果物と野菜の中間に位置するものでしょう。よく実ったトマトは柿よりも甘く、レモンよりも酸っぱいですね。レモンの酸味を6.5とすると、トマトは6.3もの酸味を持ちます。トマトは、酸味と甘みという、子供が最初に味わう、全く正反対の二つの味を持っているのです。ヒトの乳と同様に、トマトは、生まれたばかりの時に戻って原初の味を感じさせてくれる、そんな経験をさせてくれます。それはまた、トマトフレーバーと呼ばれる、新しいエッセンスを生み出します。お酢の代用として使えるものは、レモンかトマトです。ただ、お酢はお酢の味であり、レモンはレモン味でしかありませんが、トマトだけは、他の食材と混ざり合って、新しい味を作る能力を秘めているのです。


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