イスラエルを代表するファインダイニング「OCD」はテルアビブにある少人数制のテイスティングレストランです。イスラエル国内で高い評価を受け、MENAのレストランランキング(Middle East & North Africa's 50 Best Restaurants)でも上位にランクイン。2022年にはイスラエル最高のレストランとして評価され、2023年にはサステナビリティ賞も受賞しました。
特に高い品質が求められるファインダイニングでは、食品ロスを減らすことは大きな課題の一つだと思うのですが、OCDのゼロウェイスト(Zero Waste)の理念はとても有名で、食品廃棄物削減の先駆者として知られています。 今回はOCDのこうした取り組みの中心人物の一人、2023年当時OCDで研究開発(R&D)責任者を務めていたシャローム・シムハさんにお話を伺いました。

たくさんの発酵食品
今回のインタビューはテルアビブにあるSIVANSの会議室で行われたのですが、そこに颯爽と現れたシャロームさんはインタビューの準備として、背負ったバックパックから会議室の机の上にビンや容器に入った食料を次々と並べていきました。容器のフタを開くたびに漂う独特な香り。「ちょっと匂いがあるから、窓を開けた方がいい?」と聞いてくるのです。
なんとこれらはすべて発酵食品。フムス味噌や醤油、魚醤、みりん、米酢。テーブルの上には日本人の私にはなじみのあるものから、初めて見るものまで、さまざまな発酵食品が並びました。 シャロームさんご自身が発酵させて作ったものだと言います。
慣れないイスラエル人スタッフにとってはちょっと刺激が強いようで複雑な表情も。確かに魚醤やチーズカビ醤油などはなかなか興味深い匂いではありましたが、フムス味噌や醤油やシトラス胡椒など、私には食欲をそそるだけでなくどこか懐かしさを呼び覚ます匂いです。

シャロームさんと発酵食品
「僕は宗教的な家庭に生まれました。たくさんの兄妹がいて中学の時から寮暮らしでした。でも、学校では勉強には興味がなかった。寮の台所にもぐりこんでは何かを作って友達と一緒に食べるのが好きでした」
「僕の母親は料理が悲劇的に下手でした。料理はおいしくなかった。でも、お客様をおもてなしするのは天才的に上手だった。お客さんは食べ物を食べるために母のところに来るのでなく、おもてなしを心から楽しんでいたと思います」
そういうシャロームさんは子供のころから食に興味があったし、やはりそれを人に食べてもらうことが好きだったそうです。
料理が好きだったシャロームさんですが、特に強く惹かれたのが発酵の世界だと言います。
「小麦粉と水だけでも発酵があります。パン生地なら発酵させれば倍以上に膨らむ。生地の中には発酵という世界が存在するのです」
生地の中で目に見えない変化が起こり、やがてパンになる。その不思議な行程に宇宙のような神秘さがある、完全なる世界がある、というシャロームさん。発酵の世界に足を踏み入れたシャロームさんは、発酵には宗教を通して学んだ世界観に通じる神秘を見いだしたというのです。

ティクン・オラムの精神
シャロームさんの言葉には世の中を良くしたいという気持ちがあふれています。
「僕自身の幼少のころの経験から」
シャロームさんは言います。
「発酵や料理を使って、社会的に弱者で危機的な状況にある子供達を支援する場所を作りたいという目標があります。それから廃棄物として捨てられていく食品を世の中から減らしたい」。
インタビューでシャロームさんは未来に関することを言葉豊かに表現してくれましたが、過去についてはあまり多くを語る人ではありませんでした。それでも出てくる言葉の端々から、宗教的な家庭での教育が垣間見えるような時もありました。
その一つが「世の中を良くしたいという気持ち」です。
ユダヤ教にはティクン・オラムという考え方があり、人は世の中をより良く変化させるために生まれてきたのだという教育を受ける人が多いと私は日常で感じています。
彼は自分自身の目標とティクン・オラムの思想とを結びつけるようなことは言いませんでしたが、「自分が満足できればそれでいい」、「これで生計がたてられれば十分」、何を話していても絶対にそういう考え方にたどりつかないのがシャロームさんでした。
「世の中をより良くするには」「世界を良い方向に変えるには」…常に行動の基準がそこにあるのです。

OCDでの活躍
それを具体的に表すのがOCDのエピソードです。
シャロームさんはイスラエルでの教育と義務兵役を終えた後、外国で食について学ぶ機会を得ました。北部イタリア、ポレンツォにある非常にユニークな食科学大学でガストロノミー(食科学)を学び、農業から微生物学、サステナビリティについてまで徹底的に勉強したと言います。
学校の勉強には興味もなく、高校を卒業するのもやっとだったというかつての子供が、発酵に魅せられて深く学び、数えきれない失敗と実験を重ねて、膨大な知識と高度な技術を身につけました。その探究はやがてOCDでの仕事へとつながっていくのです。
OCDでは研究開発シェフ、発酵やサステナビリティ部門の責任者となり、食品廃棄物として捨てられていたパンの残りや食材の不可食部分などを有効活用することでサステナビリティ賞受賞までレストランを導きました。それでもシャロームさんはそれで満足しませんでした。
「僕には、リスクを抱えた若者たちが運営する、三つ星ミシュラン級のレストランを併設したユースビレッジを作るという目標と、 OCDで成功した発酵による食品廃棄物の削減モデルを世界に広めるという夢があります」
OCDで大きな成果を残した後も、彼は果敢に自分の夢に向かって新たな扉を開けることを恐れませんでした。

発酵を世界に広めたい
発酵についての話にはとにかく熱がこもり、際限のないシャロームさん。「発酵食品が世界の”当たり前”になってほしい。食品廃棄物を人間は”ゴミ”というふうに見るけれど、発酵が進み他のものに生まれ変わるのは自然の摂理。これは”廃棄物”などではなく、完全なる世界の一部なのです。見方一つで変わるのです」
なるほど確かに、お豆腐を作ったあとのおからなど、食べ方を知らない人にとっては廃棄物なのかもしれませんが、おからで卯の花を作れると知っている日本人にとってはおからは決して”廃棄物”ではありません。説得力があるのです。 その感想を述べると、日本の食文化についての彼の考えを語ってくれました。
日本の食文化には発酵が自然と息づいていて、決して無駄な廃棄がないこと。生物や自然の摂理のサイクルが食の哲学に組み込まれていて、非常に豊かで深みがあることなどを中心に、日本の麹事情や発酵事情についても日本人の私も知らない多くの話を聞かせてくれました。
彼の話を聞いていると、古き良き日本の伝統が目の前に蘇ってくるようなのです。

日本へのまなざし
けれど、意外にもまだ日本に一度も行ったことがないと、シャロームさんは言います。正直私は驚きました。なぜならシャロームさんの考え方の端々に、今は日常ではあまり見ることもなくなったような、日本の伝統的な哲学を私は感じ取っていたのです。
「日本へは必ず行きたいと思っています」とシャロームさんは言います。
私は、シャロームさんが日本の伝統的な発酵食品の製造現場を訪れたら、彼はどんな感想を抱くのだろうか、とても興味を持ちました。
その習慣にしっくりとなじむのか、「現実と想像は違う」と考え方を再構築しなければならないのか…。
「日本に行くことがあったらぜひ感想を聞かせて欲しい、あなたの考え方にどんな変化が生まれるのか、とても興味がある」とシャロームさんにお願いしました。
新しい夢に向かって
最後に、持ってきてくれた発酵食品を一つ一つ味見させてもらいました。まろやかで多層な味わいのある発酵食品たち。シャロームさんのお話を伺って、この味と香りを懐かしいと思える日本人の自分が、ちょっぴり誇らしい気持ちにもなったのでした。

発酵はゆっくりと時間をかけて変化をうみだします。シャロームさんの「世界をより良いものにしたい」という気持ちも、きっといつまでも途切れることはなく発酵のようにゆっくり前へ進んでいくのだと確信したような思いでした。


