今シーズン、イスラエルのバレーボールチーム、クフ・クフ・テルアビブでエースアタッカーとして活躍した日本人選手がいます。元日本女子代表の中村亜友美選手です。3年前、一度は選手を引退し教育者としての道を歩んだ中村選手ですが、2年ものブランク、そして体の故障や文化の壁をも乗り越えて、彼女はイスラエルに戻ってきました。今シーズンで、イスラエルの3シーズン目を終了しています。

今回は、ベテラン選手である中村選手の目から見たイスラエルのバレーボールについて、お話を伺いました。
目次
中村選手のイスラエルでのプレーの歴史
―――まず、初めてイスラエルのチームに来た時のきっかけを教えていただけますか?
話せば長いのですが…。私はイスラエルに来る前にJTマーヴェラスでプレーしていましたが、その時の監督が吉原知子さん、通称「トモさん」でした。そしてJTマーヴェラスは、イスラエル代表チームが日本に遠征試合に来た時の受け入れ先でした。

実は、当時のイスラエル代表の監督が、トモさんがパイオニア・レッドウィングス(山形県天童市を本拠地としていた日本のバレーボールチーム)でプレーしていた頃の監督、アリ-ー・セリンジャー氏だったのです。トモさんは「私のバレーボール人生を変えた、一番の恩師」とおっしゃるほど、セリンジャー監督には絶大な信頼を寄せていらっしゃいました。

その時のイスラエル代表のコーチが、日本遠征後にハポエル・クファル・サバ(イスラエルのバレーボールチーム)の監督に就任して、そこでエージェントを通じて私を指名してくださったのです。2017年のことでした。
―――ちょっと複雑ですけれど、簡単に言うと、監督同士の人脈のつながりが発端となって…という感じでしょうか?
まあ、大体そんなところです。それでまず、ハポエル・クファル・サバで1シーズン、次はクフ・クフ・テルアビブに移ってもう1シーズン、プレーしました。その後一度日本に戻り、選手を引退しました。ひざの故障もあったし、年齢もあったし、もう、これ以上は出来ないと思って…。そして日本の学校で教員として、子供たちに体育とバレーボール部の指導をしていました。でもその後、クフ・クフ・テルアビブが是非にと強く推してくださったので、2021年にまたクフ・クフ・テルアビブに戻ってきたのです。それが今回の3シーズン目です。

イスラエルのバレーボールの最初の印象と、自身の変化
―――3シーズン目ということで、今ではもう、イスラエルでのプレーもお馴染みだと思いますが、はじめの頃の印象、覚えていらっしゃいますか?
はい。初めてイスラエルに来て「遠征の時に会ったよね!」というような、代表チームの顔見知りの選手との再会は嬉しかったです。でも本当のところは、イスラエルに行くまでは「イスラエルってどこにあるの?何語をしゃべっているの?」という感じだったのです。本や漫画で学んだり、コミュニティーにたずねたりして、イスラエルについてゼロから勉強しました。言語も文化も、宗教も政治も、本当に何も知らなかったのです。
それに海外でプレーするのも、海外のチームと契約するのも、何もかもが初めてでしたから、正直最初はカルチャーショックが大きかったです。
街でも車はクラクションの音がすごいし、人々の声は大きくて、皆、知らない人でもガンガン話しかけてくるし、ジェスチャーも言葉も圧も激しくて(笑)。どこへ行っても驚きでいっぱいでした。

バレーボールも、練習のやり方や体育館の使い方とか、もう、基本的なことからして今まで私がやってきたことと全然違ったのです。皆大きな声で良くしゃべります。練習時間もたった2時間という非常に短い時間。日本で2時間と言えば、大体ウォーミングアップくらいの時間でしかないのに、その中で監督が何か言うと、選手達が一斉に英語、ヘブライ語、ロシア語でわ~っと言い返すのです。もう、日本では絶対にあり得ません。日本の感覚から言うと、全然練習になってなくて本当に驚きました。
でももっと驚くのが、練習ではこんな感じなのに、この人たちが本番の舞台に強いということ。練習で決まらない技を本番で決めることがあったりして、驚きました。まあもちろん、練習で決まらないくらいですから、まぐれってこともあるんですけれども。

―――それはまたイスラエルらしいエピソードというか、なんというか…。ものすごいカルチャーギャップだったのですね。
はい。でも実は、そういった日本ではあり得ない!と思うようなこのギャップが、私にとってはプラスに働きました。私は日本の中でずーっとバレーだけをやってきたので、それが本当に別の場所でも通用するのか、私がやってきたことは正しかったのか、いや、正しいと信じていたからこそ、それを確かめたいという気持ちもあったので。
そして、自分を変えたいと思う部分もありました。以前はすっごく潔癖な部分もあったのですが、今ではそれほどでもなくなったし、友人たちにも丸くなったと言われるし、自分でもイライラする時間が減ったと思います。

中村選手とバレーボールの出会い
―――中村選手は子供のころからずーっとバレーボール一筋!という生活だったんですか?
バレーボールを始めたのは、小学1年生の時でした。もともとやんちゃで体力が有り余っている様な子供だったので、兄とよくケンカもしていたのです。それを見かねた両親が、何かスポーツをやらせたいということで、兄妹で連れていかれたのが柔道クラブ。でも、柔道を嫌がった兄が、同じ体育館の2階で行われていたスポーツ少年団のバレーボールクラブに目を付けて「バレーボールをやりたい!」と言ったのがきっかけでした。つまり、私自身は何もわかっていなくて。強い意思を持ってとか、バレーが楽しくて仕方なかったからとか、そういう理由があったわけではないのです。

―――それでも、日本でのご活躍は素晴らしいものでしたよね。いわゆるバレーのエリートとも呼べるような道を歩んでいらっしゃった。
確かにそうかもしれません。でも、それに気づいたのもイスラエルに来てからですよ。私は小学生の頃から身長も高かったので、中学の頃にはすでに年上の選手たちと一緒に練習していました。バレーボールのために親元を離れて、友達もいない中学校に通い、高校生と一緒に練習する。多感な年頃のそんな生活は、つらいと思うことの方が断然に多かったです。親が敷いたレールの上を歩かされているという気持ちもあって、あの頃はバレーボールを楽しむなんていう余裕は微塵もなかったです。

それでも、中学校の「総合的な学習の時間」で出会った和菓子職人さんが、私に直接下さった言葉が転機となりました。この職人さんは、親の代から続く和菓子の店を継ぎ、それを心から受け入れることができるようになるまでの葛藤を話してくれた人でした。私は「親が決めた進路に進むことになってどれほど苦しい思いをしているか、どうしても納得できない」と手紙でしたためて、この職人さんに自分の思いのたけをぶつけたのでした。職人さんは、総合学習の時間で話しただけの見ず知らずの中学生の手紙に、本当に丁寧に返事をしてくださいました。

「親の決めた道、そう思うと言い訳が出てきますが、応援してくれている親のために、そう思うと、なんだか力が湧いてきませんか?」
この言葉が私の心をとらえました。つらいのは私だけではない。母も苦しい思いをして、私を応援してくれているんだということが見えてきました。
この時から私は本気で練習に取り組むようになったし、母には自分の気持ちを洗いざらい話し、なんでも相談するようになりました。母は今でも私にとって一番近い存在ですし、母の全身全霊の応援に、本当に感謝してるんです。


イスラエルとの違いを乗り越えて気づいたこと
―――それからは順調にバレーボール一筋の人生を歩んで、中村選手自身がバレーボールそのものというか…。
いえいえ…それからも「順調」には程遠い道のりでしたよ。怪我とかもありましたし、1部リーグから2部リーグに降格したこともありました。
それに私は、バレーボールが好きとか、バレーボールプレイヤーです!とか、そういう風に胸を張って言えるようになったのは、実はイスラエルに来てからなのです。日本にいた頃は、そういうことを言えるような気持ちが、自分の中にありませんでした。

―――そうなのですか?!でも、日本では青春や生活のほとんどすべてをバレーボールに捧げて、しかも日本を代表する、全日本代表の選手だったんですよね?それでも「バレーボールプレイヤーです!」って言えなかったって…。
日本にいた頃は、勝たなければいけない、他の人より強くなければいけない、失敗してはいけない、言い訳は許されない…そういったことにばかり気持ちが向いていました。
それでイスラエルに来て、こちらの人たちを見て思ったんです。天真爛漫というかなんというか、正直な気持ちがダダ洩れで、もう、言い訳ばっかりですよね。(笑)
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(イスラエルバレーボール協会のホームページより)
正直私よりもずーっと下手なプレイヤーが自信たっぷりに「私、バレーボールプレイヤーだから!」「バレーボール大好きだし!」って、堂々と言うんです。
でも、すぐに「そんな技、出来ない」とかって平気で弱音を吐くんですね。それで自分で出来ないって言ってるくせに、うまく出来ないとすごく悔しがったり。だからといって練習量を増やして、ものすごく頑張るというわけでもなく。(笑)

はじめの頃の私には、とてもではありませんが、理解できない世界でした。
監督も呼び捨て。監督に向かって言い訳、口答え「こっちの方がいい」とか言い出す始末。「あ、明日の練習、私休むから~!」って、帰りがけにいきなり大声で報告。とにかく何もかもが衝撃でした。
日本人の私にはそんなことは絶対にできないし、まあ、やりたいとも思いませんけれど(笑)、でも今は、それぞれに良いところがあると思うので、それはそれでいいと思っています。

―――でも、日本で厳しい練習を続けてきた中村選手にとって、そのマインド・チェンジは難しかったのでは?
ええ、大変でしたよ。私は何のためにここにいるのか、何のためにバレーボールをやっているのか、何のための勝負なのか…。本当に何度も何度も自問自答、繰り返し繰り返し考え続けました。でも、クフ・クフ・テルアビブに入って、バレーボールに対する価値観というものが、私の中で本当に変わったのです。

このチームに一緒に入らないかと声をかけてくれた選手から、最初にこう言われました。「正直このチームはいわゆる貧乏チームでお金もあまりないし、イスラエルのリーグで取り立てて強いというわけでもない。今までのバレーボールとはきっと違うバレーボールになると思う。それが亜友美の好きなバレーボールになるかどうかはわからないけれど、自分がやりたいバレーを楽しく作っていくことができるし、良い選手が集まって力を合わせれば、強いチームになる可能性もある」と。それで、勇気を出してこのチームに決めたという経緯があったのです。

さらに、今シーズンのオファーに関しては、すでに選手を引退して2年も経ってからのものでした。でも「ぜひ、亜友美に来てほしい、今すぐに!」って言ってくださった。「2年前と同じように動けるかはわからない。ブランクもあるので、すぐ怪我をしてしまうかもしれない、それでも来て欲しいと言ってくれるなら」と、私も監督の気持ちにこたえたいという一心で、教員生活をやめてイスラエルに戻ってきました。
今でも「どうして亜友美の様な選手がこのチームに?」と言われることもあります。「弱いチーム」って言われているわけですから悔しい気もしますけど。でも私には、ここの監督に恩もあるのです。
そして今では、私はイスラエルがすっかり好きになってしまいました。正しいことや良いことはたった一つだけではないし、イスラエルにも日本にも、それぞれの良い点、悪い点があるということが、今の私にはわかります。わかるからこそ、悪い点だけを見つけて文句を言うのではなく、両方の良い点を活かしていきたい、頑張ればきっと私にはそれができると思っています。



中村選手のこれからの夢
―――今シーズンも終了ですね。本当にお疲れさまでした。これから日本に帰られるそうですが、この先の予定は決まっていますか?今後の夢は何でしょうか?
とりあえず今シーズンの契約が終わったので、私は日本に帰ります。
日本に帰ったらすぐに、こどもスポーツ研究所MOVEが主催する、子供たちにバレーボールを教えるイベントが控えています。ぜひ多くの子供たちにバレーボールの楽しさ、スポーツをやる喜びを体験してもらいたいです。

それ以外の具体的な予定はまだ決まっていないのですが、私はイスラエルが大好きなので、機会があればまたイスラエルに来たいと思っています。
故障や年齢のこともありますから、ずっと選手として最前線で戦い続けることはできないことはわかっています。それに私は教員として、組織の中で子供を教える難しさも体験しました。新しいことにも恐れずに挑戦し、犠牲を払ってでも自分の意思を貫くことの大切さを、教え子たちに見せたいという気持ちもあります。教員としての経験や、一度は引退した経験なども活かして若い人たちを教えながら、まだ選手としてやっていける場所があるなら、もっと頑張っていきたい、そう思っています。


私はイスラエルで本当に多くのことを学びました。日本とは、様々なことでまったく価値観の違うイスラエル。ここで私は、自分がバレーボールが大好きなんだということを知りました。親や友人、教員時代の生徒たち…。本当にたくさんの人たちに応援してもらいながら、支えてもらいながら、自分で選んで自分の足でここまで来たことを実感しています。私を育ててくださった周囲のすべての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。そして私は、人生のうれしいことも苦しいことも、これからもずっとバレーボールと一緒に生き続けていきたいです。
今なら私は日本でもどこでも、胸を張って言うことができます。「私はバレーボールプレーヤーです!」
