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Art

EART LIFE in Jerusalem 第四回 |<ダンスを生きる・続編>
カルチャーアクティビストの可能性

by YUKO IMAZAIKE |2020年10月19日

連載「EART LIFE in Jerusalem」を全部読む


イスラエルは今ユダヤ暦新年から続く大型連休で、中秋の名月はスコットという祝日がはじまりました。

ユダヤの旧暦は、月の満ち欠けに沿って視覚化できるおかげで、異教徒でも一緒に祝い祈る事に馴染みやすく、神羅万象に畏敬の念で参加できるのがとても良い点かと思います。


Photo by Anatoly Shenfeld

新年ホリデーの一つのヨームキプール「大贖罪日」は、ユダヤ教の人々は「懺悔」し、その暁には神様から許しとしての契約の刻印が降ろされるといいます。

一神教の「懺悔」という概念は、私達にはあまり馴染みのないものかもしれません。
丸一日断食祈祷しお互いに謝り、当日は労働や全ての生産行為を禁じるため、高速道路で寝そべっていても大丈夫なんですよ!


最近では「癒やし」「浄化」といったりしますが、これらは、結果とそこに至る原因のような在り方と方法が「懺悔」なんだとイスラエルの暮らしで学びます。

今考えてみると私がネゲブ砂漠の日々で取り組んだ事は、これでした。
【第三話参照】


OUTからINへの直感

ダンサーなので、物事の動きや流れにとても関心があります。
同じ結果でも、それがどこからどの方向からやってきたのが重要です。


砂漠で踊る舞の師JUN氏と筆者 Photo by Nurit Agur

ネゲヴ砂漠にいて、180度変わったことは内から来るヒラメキである「IN からOUTの表現」が逆転しました。

表現されるべきものは、すでにそこにあるという感覚です。

自分は大きな砂漠の中の点にしかすぎず、やれることは、砂漠の天気次第。


Photo by Anatoly Shenfeld

初代首相ベングリオンが砂漠にイスラエルの未来の希望を見出し、私のボスは「砂漠を癒す人は自分を癒せる」と言っていましたが、これには建国浅いイスラエル人の根底に共通している感覚だと思うのです。

周りの環境が規定されている場合が多いのが砂漠。
物理的に足りないもの、インフラが整ってない事も多い・・・。

自分がどう踊るかでなく、いかに、今ここにいる環境と仲良くしたものが出てくるかが勝負です。

壮大な予算を使う作り込んだ踊りだったら、都会でやっていればいいわけですね。


砂漠のコンポスト「果」を集めて「因」にする力

ダンスカンパニーではもっぱら、コンポスト生活でした。(コンポスト:有機物を微生物の働きで分解させて堆肥にする処理方法)
イスラエルではだいぶ一般生活に定着していると思います。


といっても、堆肥作りだけでなく、全ての循環の中で必要な登場人物だけ住んでいるという感じで、イベントで多く作ったごはんの食べ残しの炭水化物系食べ物は、まず鶏さんやアヒルさんへ、
野菜はうさぎさんへ、うさぎさんのフンは、いちごやお野菜の畑へ、畑には、実のなるザクロの木や砂漠の木陰になる柳とかが植えてあって、枝葉はやっとコンポストへ。


Photo by Anatoly Shenfeld

排泄物は宝ですね。
都会では、尿のにおいが、鼻をつんざくにおいになっているケースがおおいですね。

それがなければフン自体って大丈夫じゃんと、カラカラの砂漠で気づきました。
砂漠には、ロバやラクダや色んな動物のフンがよくおちています。


砂漠のカンパニーでトイレを掃除するのは、ダンサーの仕事だとボスはいいました。

都会の人は観客になってそのストレスを砂漠に捨てに来る。ゴミを捨てに来るんです。なんなら砂漠自体が人類の文明の負債としての砂漠化なんだから・・・。


私たちダンサーは、カキ(ヘブライ語で大便)とディールして、そこに花が咲かせられるか?・・・という壮大な文明と自然の境界線に立ち塞がる門番なのです!

あらゆる意味の排泄物を大地にかえして堆肥にし、次には万花をさかす。
この力が砂漠から生まれるアートとアーティストの役割なんですね。


ネゲヴ砂漠では昔から太陽光発電であったり、パーマカルチャーの学校があり、少ない水で果実が成る灌漑農業開発が進んでいます。
砂漠の土地は収入税の調整や農業開拓する土地への政府補助があります。
遊牧民(バドウィン)たちの定住問題と繋がっているのですが、そうすることで、若者が地方に分散されて住んできました。


Photo by Anatoly Shenfeld

近年砂漠には、たくさんワイン畑があります。
皆、樹齢も若いんですが、イスラエルの南産ワインは、北ゴランなどのワインとちがって世代を超えて土地を耕す可能性となるかは今から問われていくと思います。


砂漠に広がるワイン畑 Photo by Shimon Bokshtein

これは、エンタメーテイメントの力であり、砂漠に排泄をしてもらえるための方法論。それがアートなんです。


アーティストはその場を癒す人。荒地を癒しの地へ

こういった事に対して、砂漠に残された排泄物を使って砂漠を豊かにする逆ベクトルの働きが必要です。
私は、それをアートの力だと学びました。


アートとエンターティメントは、最終目的は同じでも、互いが互いを補い合う逆ベクトルの作用なのです。
それはまるで動脈と静脈のような関係なのかもしれむせん。


Photo by Anatoly Shenfeld

アートはその場を浄化できる能力を要求されてきました。

その人自身がどうこう思う事を生み出すのは、排泄する側です。
その作品が売買される事により、大衆の排便を促します。
こちらだけだと環境破壊や金融資本主義からアートは自由になれない事に気付かされたんです。


それに比べ、太古のアートは、祭祀儀礼やリチュアルの中で息づいてきました。
つまり、いかに地球の意志を代弁し身体のすみずみまで明け渡すことができるか・・・これが祖先が続けられて来た天然のアート、生きるための芸術行為なのだということです。


原子の生活により、回帰していく。自然の感性

当時私は貧乏で、どうすれば、お金を使わず生きていけるかが生活の中心でした。

とにかく、節約しか脳がない状態だったと思います。(現在進行形かも・・・笑)

気が付いたらいかに買わずに食べるかを探っていました。
野菜を育てるのに、全くコストがかからない方法をさぐると、勝手に自然農法みたいになっていきます。


砂漠は水が貴重、水道からひねって出すのには問題外。
シャワーや洗濯機の水を少しでも廻したいから自然と化学薬品が消え、石鹸はなくなり、
自然素材というより、家になにもない。
そしてなにより、ごみ箱が宝箱になりました。
生ごみなんかは大好きになったんです。


Photo by Anatoly Shenfeld

すると、アートの目的は、如何に観客に受けるか、如何に斬新か・・・ではなく、何が今の時代の必然なのだろうかと自分に問いかける日々になりました。

これが砂漠で生きる中で得られた私の最大の変化でした。


アーティストは365日懺悔

「懺悔」にすこし希望を覚えます。


その根本的な構造に、「自分の為にはやりにくい」というものがはいってるからこそ懺悔するわけなんですよね。しかし、今の世の中のどんな活動も自分だけの価値観と自分の判断でやってしまえる(特に都会では・・・)。原始的な相互協力のコミニティ共同体による助け合いが大切なのですが、厳しい砂漠では、限られた資源の中互いを譲り合う姿勢に加え、もう一つの方法「価値観を統一する事」つまり、一神教が発達しました。


たとえ数あるユダヤ教の教えだって全部自分に使い切るためにやってしまえます。

でもこの「懺悔」という祈りには、自分でメスをもって切開して癌を探しだすような行為です。

「懺悔」によって修正されるものは、まず一に、周り(人、地球、宇宙、神など)が順番の先頭にある。他というベクトルが含まれています。

その切れた繋がりを最縫合し適合化されることによって、また再び感じ直す事の出来る状態に復元する・・・そんな行為が懺悔です。

懺悔は過去を捨て未来を捨て今になり切る為にするこういう事なんですね。


砂漠で踊る舞の師JUN氏と筆者 Photo by Nurit Agur

舞の師のJun Amantoさんが仰ることですが、懺悔とは正しく全否定する事。
「ごめんなさい」と言えることは大切です。
そこには、ポジティブな自分否定があるからだと言われていました。


「懺悔」は、落ち込むためにするものではなく、悔い改め先に進むために自分のバグを探して修正する行為なんです。

つまり「懺悔」は、私はこんなものではない!と信じられるからこそ行えます。
「懺悔」をする民族からすれば、謝らない人は強いのではなく、実は弱い人という事にもなる・・・。


古代から人は、この「悔い改める」という事の前段階として「懺悔」を大切にしてきました。
懺悔とは、自分を許す前に、許してもらう・・・。
許してもらう前に、深く味わう事。
よく「自分を許してあげる事が大切」と言いますが、「自分は自分で許すのではなく天に許してもらうべき!」そんな考え方が、一神教の「懺悔」の中にあったんですね。


懺悔コンポスト。繭のような生成装置

これらの事について、沢山の事を学ばされました。他の文化と比較する事で、その文化はもちろん、それを自覚する自分をよく知ることができます・・・。祖先の芸術行為は、自然と切れる事のない生きる事を美しくする天然藝術活動EART でした。


今それが、世界の文明による環境負荷を自浄させ「文化VS 文明」ではなく「文化と文明を正しい形で融合し、地球のホメオスタシスとして再統合する事」が必要です。それは、自然の果てと文明の果ての接するところ。砂漠から始まるべきです。そこにある天然芸術のあり方は、世界の破滅を防ぐ、普遍的な次世代の人類の価値観を作っていける・・・

壮大なコンポストなのです。


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