脳内の「ミエリン」は神経信号を速く伝えるための存在だと考えられてきました。しかしイスラエルのベングリオン大学の研究チームは、その主な役割が「省エネルギー」にある可能性を発見。認知症や多発性硬化症などの神経変性疾患研究にも新たな光を当てています。

脳の半分以上を占める重要な存在
私たちが考えたり、記憶したり、身体を動かしたりできるのは、脳内で膨大な数の神経細胞が電気信号をやり取りしているからです。
その神経細胞の長い突起である「軸索(アクソン)」を包み込んでいるのがミエリンです。脂質を多く含む膜状の構造で、電線を覆う絶縁体のような役割を果たしています。
実は、人間の脳の体積の半分以上はミエリンによって構成されているといわれています。それほどありふれた存在でありながら、その役割にはまだ多くの謎が残されていました。
これまでの神経科学では、ミエリンの主な役割は電気信号を高速で伝達することだと考えられてきました。特に腕や脚につながる末梢神経では、ミエリンがあることで信号伝達速度が大幅に向上することが知られています。

「速さ」ではなく「省エネ」が本当の役割だった
今回、ベングリオン大学健康科学部の神経生理学研究室は、大脳皮質の灰白質に存在する非常に細い神経線維を対象に研究を行いました。
研究チームは高度な光学イメージング技術、電気生理学的測定、さらにコンピューターシミュレーションを組み合わせて、ミエリンのある神経線維とない神経線維を比較しました。
その結果、意外な事実が判明します。
ミエリンの有無によって神経信号の伝達速度にはほとんど差が見られなかったのです。
一方で、エネルギー消費には大きな違いがありました。ミエリンを持つ神経線維では、神経活動の際に細胞内へ流入するナトリウムイオンの量が約50%減少していたのです。
神経細胞は活動後にナトリウムイオンを外へ排出し、元の状態へ戻るためにATPというエネルギーを消費します。そのためナトリウムの流入が減ることは、神経活動に必要なエネルギーコストの大幅な削減につながります。
つまり、脳内のミエリンは「高速化装置」というよりも、「省エネルギー装置」として機能している可能性が示されたのです。

進化が選んだ巧妙な設計
研究チームはさらに、なぜ脳内のミエリンが省エネ効果を生み出すのかを調べました。
その結果、脳の灰白質に存在するミエリンは、末梢神経にあるミエリンとは異なる特徴を持つことが分かりました。
もし脳内のミエリンが完全な絶縁体として働けば、神経細胞に必要なカリウムイオンなどの循環が妨げられてしまいます。その結果、細胞は正常な機能を維持できなくなります。
そこで脳は、エネルギー効率と細胞機能の維持を両立する仕組みを進化の過程で獲得したと考えられています。
高速な電気信号は効率よく伝えながら、細胞に必要なイオン交換も可能にする。ミエリンはその絶妙なバランスを実現しているのです。
神経変性疾患研究への新たな視点
今回の発見が特に注目されている理由は、神経変性疾患との関係にあります。
多発性硬化症ではミエリンが破壊されることが知られています。また近年では、アルツハイマー病やパーキンソン病などの疾患においても、ミエリンの異常が重要な要因の一つではないかと考えられています。
従来は、ミエリンが損傷すると神経信号の伝達速度が低下することが問題視されていました。しかし今回の研究は、より深刻な問題として「神経細胞のエネルギー不足」が起きている可能性を示しています。
つまり、ミエリンの損傷によって神経細胞が余計なエネルギーを消費し続け、その結果として細胞機能が徐々に失われていく可能性があるのです。
この視点は、神経変性疾患の発症メカニズムを理解する上で新たな手掛かりとなるかもしれません。

イスラエルが切り開く脳科学の未来
イスラエルはAI、サイバーセキュリティ、医療技術の分野で世界的な存在感を示していますが、近年は脳科学や神経科学の研究でも注目を集めています。
今回の研究は、私たちが長年信じてきた脳の仕組みに新たな解釈を提示するものです。そしてそれは、認知症や神経変性疾患に苦しむ世界中の人々にとっても希望につながる可能性を秘めています。
脳は人体で最も多くのエネルギーを消費する器官です。そのエネルギーをどのように節約し、効率的に活用しているのか。その謎を解き明かすイスラエルの研究は、未来の医療を大きく変える一歩になるかもしれません。
*本記事はイスラエルメディアynetの報道をもとに構成しています。


