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#イスラエルに寄り添います

インタビュー:戦線の息子を待つ兵士の母(後編)

by ISRAERU 編集部 |2023年11月27日

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イスラエル・ハマス戦争が激化する中、様々な理由でイスラエルに残る日本人も沢山います。今回は、戦禍のイスラエルに留まる決心をした高野洋子さん(仮名)にお話を伺いました。



高野洋子さん(ご本人提供)

ーーー日本では、子どもを戦場に送るという経験をする人はいません。そのような経験をされている今、現地在住者の目線でこの戦争について思うことをお話しいただけますか。


「息子が兵役に就く」ということは頭では理解していましたが、まさかこんな時期にこんなことが起こるとは全く予想もしていませんでした。正直混乱の気持ちが大きく、どうすればよいのか本当にわかりません。なんといっていいのか自分でもあまりうまく表現できないことでもありますが、「覚悟」について考えた、という気がします。


私は90年代にこの国に来ていますので、第2次インティファーダ、イラク危機、第二次レバノン戦争を含め、2000年以降の紛争もすべて体験しています。そのたびに友人を兵役に送り出し、空襲警報を合図に身を守り、子供を守ってきました。パレスチナ人と一緒に仕事をしていたので、複雑な状況にも身を置いてきました。怒りも、哀れみも、腹立ちも、絶望もありました。


今回の戦争では避難民のためにボランティアもしました。兵士のために寄付もしました。日本の会社の方に頼まれてイスラエルの状況の説明をしたりもしました。それでも私は自分がどこに向かって歩いているのか、何をしているのか全くわからないような状態です。たくさんのイスラエル人が、パレスチナ人が、大人が、子供が、殺されているのを見ているだけです。拉致された人々は今も行方がわからないままです。

(編集部注:インタビュー後の11/24頃から人質は徐々に解放されているが、未だ大部分が行方不明のまま)


それだけではなく、私は自分の息子がどんな状況にあるのかもよくわかっていないのです。


今も囚われたままとなっている子どもたち


私がまだ息子の「保護者」であった頃は、息子に関する責任は私と夫にありました。何かあれば高校の先生に電話もして、学校にも出向いて、状況の確認をしたり、必要なら改善だって申し入れました。でも、今はそういうわけにはいきません。私はもう、法的には息子の「保護者」ではないし、彼は成人しているのです。


毎日毎日、降り注ぐミサイルの数を数えています。戦争が始まったころはテロリストが自分の街にも侵入して映像で見たような虐殺を私達家族や友人にも行うのではないかと眠れない日々が続きました。それで、このような不安定な状態が毎日続くことに自分の心が耐えられなくなったのだと思います。覚悟を決めるしかないと思いました。


日本の友人には「まるで昔の日本みたい。軍国主義。」と言われましたし、本当にそうなのかもしれません。しかし、生きている私達は私達を守ってくれている人に対して感謝して、テロには絶対に屈しない。そういう姿を子供達に見せてかなければならない、と思うようになったのです。


ーーーつらいお話をありがとうございます。戦争の今後について、一般的な世俗派イスラエル人はどう考えていますか?


残念なことに戦争は長引くだろうというというのが多くの人の見方です。イスラエル人は二度とこういうことが起きてはならないと考えていますので、イスラエルにとって今回の戦争は拉致被害者が全員無事家に帰るまで、そしてハマスが二度とテロ行為を行わないという確証が取れるまで、終わることはないと思っています。


2005年にイスラエルがガザから完全撤退し、それまでガザで生活していた何万人のイスラエル人入植者を一人残らず強制退去させてから現在まで、イスラエルは08年、12年、14年、21年と、ハマスの無差別ミサイル攻撃をきっかけとする紛争を4回も経験してきました。そのたびに国際社会はイスラエルを非難し、無差別ミサイル攻撃で戦闘を開始したハマスの罪を糾弾しないままイスラエルに停戦を要求し、イスラエルはその意向に従ってきました。


その結果、イスラエルは何を得たか。2023年10月7日の虐殺と拉致、そしてさらなるミサイル攻撃です。


パレスチナとの和平に向けて長年、尽力してきたイスラエルの平和活動家ビビアン・シルバーさん。キブツ・ベィリでハマスに虐殺された。


2008年に、2012年に、2014年に、2021年に、しっかりとハマスを糾弾し、これ以上のテロ行為を許さないという姿勢を示すことができていれば、今回のようなことは起きなかった。パレスチナ人だってこのように苦しむ必要など全くなかった。その機会は4回もあったのです。そのたびに、ハマスに向かって「どうぞ、次回もミサイル攻撃をしていいですよ」と、メッセージを送ってきたのは国際社会であったと思います。イスラエルもそれに屈してしまった。


正直、今後については明確なビジョンを描けている人はいないのではないでしょうか。それはイスラエル政府もそうだと感じています。何しろ、イスラエルはこんな風にハマスが攻撃してくるとは考えていなかったからです。わかっていたら、もっと明確な予定を立てていたでしょう。二度とテロ攻撃を受けない国を作る。それが目標だとは思うのですが、そのためにどうすればいいのか…。ユダヤ人はつくづく難題に直面する運命を持つ民族だと思わずにいられません。


ーーー今回ばかりは今までのような停戦はできませんよね。それには、国際社会の理解が必須と思いますが、相変わらず世界はイスラエルには冷たい状態です。日本も例外ではありませんが、日本での偏向報道について懸念があれば教えてください。


まだインターネットも個人には広く普及していない時代であった、第2次インティファーダ(パレスチナ人による抗議運動、2000年〜)の頃。イスラエルの新聞の一面で、私の考えを変えた一枚の写真を目にしました。


インティファーダでは、若い少年達が素手で戦車に向かって石を投げる写真が報道されて、世界中の人々の涙を誘いました。しかし、イスラエルの新聞にはその写真がどのように撮られたのか、一目でわかる写真が載っていたのです。それは、石を投げる少年をもっと遠くからとらえて写したものでした。


その少年の周りにはカメラを構えた世界各国のカメラマンがぐるりと取り囲んでいました。遠くの方に確かに戦車は見えますが石が届くような距離でもない。衝撃でした。世界の同情をさらった「小石で戦車に立ち向かうかわいそうなパレスチナ人」とは一体何だったのか?と思いました。


イスラエル軍の攻撃によって怪我をした演技をしているところに実母が登場し、心配して大騒ぎしたため包帯を外し怪我などしていないことを説明している


それ以来20年以上、私は新聞やニュースの内容以上に、なぜそれがニュースになったのか、何がニュースにならなかったのかに気を配るようになりました。


報道関係者の知人の話によると、今でもパレスチナでは「石を投げてやるから写真を撮ってくれ」と言ってくる若者は多くいるそうです。それでも、今はそんな写真はあまり使い物にならないそうです。その理由は「演出されているから」ではありません。今必要とされている写真はもっと衝撃的な刺激の強いものだからです。つまりは、少年が小石を投げる姿などに世間は刺激を感じない、もう見飽きた、ということなのです。


報道で見聞きできるのは実際に起こっていることのほんの一部です。実際は見聞できないことの方が報道されていることの何倍もあるという、当たり前のことを忘れてはならないと思います。


そして、報道は常に、絶対的に「切り取り」であるということは常に覚えておかなければなりません。なぜなら切り取らなければ報道できないからです。一体何が切り捨てられた部分なのか、そこが報道の内容と同じくらい、いえ、それ以上に重要である。これは常に心にとめておかなければならない、これがあの 1枚の写真から私の学んだことでした。


私は日本にいないので、日本の報道をくまなく追っているわけではありません。それでも日本の報道が偏向しているという話はよく聞きますし、少ししか見ていない私もそれは感じます。


映像は感情を揺さぶるにはとても良いツールではありますが、ドラマや映画と異なり、現実に起こっていることは感情のみでは判断できないものです。映像とは小さな隙間から片目でものを見るようなものです。それが各報道者の様々な意図によってたくさんのフィルターをかけて加工されて電波に乗っている。なぜそのような加工、編集がされているのか、なぜそのようなナレーションが付け加えられているのか、なぜそのような名前で出来事を呼ぶのか、それを考えながら報道に触れるべきだと私は思っています。


ーーー最後に、読者の方へのメッセージをお願いします。


遠くイスラエルで起きている出来事に興味を抱いてくださる方々には感謝の気持ちでいっぱいです。


矛盾するようですが一方、今の社会では世界は本当に狭くなっています。こんな中東の遠くで起きている出来事でも、現在社会ではそれがどんなつながりで自分のすぐ隣に同じ現象が姿を現すかもしれません。どうか、日本にも常に平和があることを祈ってやみません。