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落下の予測|イスラエル人画家Shai Yehezkelliのアトリエを訪ねて

by Art Source |2021年07月20日

イスラエルアーティストShai Yahezkelliの作品

イスラエルの芸術家であるShai Yehezkelli が過去1年間に描いた最近の作品の内の1枚で、彼はマゼンタに塗られた水に浮かぶ、一艘のオレンジの漕ぎ舟を表現しました。Yehezkelliの描くその舟に、乗り手の姿はありません。乗り手のいないその舟の不気味さには、それを掴んで動かす手もないまま、舟の中から不自然にぶら下がる3本のオールによって、さらに拍車が掛けられています。



近づいてよく見ると、Yehezkelliの作品の特徴でもある強い色彩構成と平面的な絵画調の筆遣いによって、その不安な感じはますます強まります。一つの小さな丸くて暗い穴が、水面の中にミステリアスに突き出していますね。その穴は、どこか遠い所に出現し、その中にキャンバス自体が飲み込まれ、消えてしまうまで、この絵画作品の本質をそこに吸い込こんでいってしまうのかもしれません。このように、単なる平凡な航海の風景も、Yehezkelliの手にかかる事によって、破滅の運命へと繋がる表現に変わってしまうのです。


画家の筆遣いと色の選択、若しくは選んだ主題によって、その作品がどう表現されていくのか、そして如何に芸術的な価値がもたらされるのかが決まってくる、ということは普通よく言われる話です。しかし、イスラエル国内外の様々な展覧会で作品を公開しているYehezkelliの場合、その作品の価値は常に不確かなものであり、その作品を鑑賞する人の中でこそ呼び覚まされるもののようです。小さな、そして見たところ突然に行われたかのような色や形の追加、もしくは削除、最初の頃の意図を隠すために設けられた新たなレイヤー、不吉なサイン、そして超現実的なシンボルなどなどといった要素は、どのように画家の意図を汲み取るかをガイドして行く、まさに内なる情報となっているのです。



今やイスラエル現代美術シーンのハブともなっている、南テルアビブ近郊の中心に位置するYehezkelliのアトリエを訪ねたところ、彼の創作への道には常に驚きが満ちており、その中には自らの過ちすら糧にしている、との話を聞くことができました。「創作過程のことを考えると、自分自身を驚かす、ということが、私自身のキーワードとなっているのは確かな事です。しかしそれはちょっと複雑な話でもあるのです。美術学校の生徒を教えている時は、私も無論、ちゃんとスケッチを取りなさい、とか、写真を参考に制作して行きなさい、といったような、画家を目指す初心者にはまさに基礎となるような制作準備の過程を必ずしっかりとって行くよう指導しています。そう、無論そういったことは教育上は必要な話ではある訳です。しかし、自分の作品を作って行く上では、そういった前準備は全く価値のない話なんです。


前もって予想できない、どのような事を彼は追い求めているのでしょうか?「本当の価値とは、自身の創作を通じてどこに自分が行き着くのか、を知る事にあると思っています。しかし同時にそれには、全く何のヒントも手掛かりも無いことなのです。何も知らないでいる事、そして自分をコントロールすることを失わせてしまう事、そういった事こそが私を創作へとかき立てるのです。


ノー・イリュージョン 

絵画は、中世の洗脳的な世界から、ルネサンスの栄光に満ちた時代の模倣に至るまで、歴史的な軌跡の中で進化を遂げてきました。そして最終的に、現代のポストモダニズムの流れの中へと至ります。Yehezkelliは、こういった過去の伝統をしっかりと考慮しながらも、自身の作品をそのような決まり切った分類の中に置くことを極端に嫌がります。絵画は世界に向けて開かれた扉であるべきだとか、幻想的な価値を生み出すべきだ、などといった考え方に対して、彼は頑なに異を唱えるのです。そしてそのことが、作品の中で立体的に事物を描く事を彼が避ける最大の理由となっています。しかし同時に彼は、自分自身を驚かせ続けたいと強く思っており、その驚きを実現させるためにも、未だ試したことのない新たな色、主題、形をどんどんと取り入れていこうとしているのです。


とてもソフトな、しかし熟考された語り口の、ベツァルエル美術デザイン学院出身のこの芸術家の眼差しは、聞き手の私と、自身のアトリエの壁に掛かった一連の作品との間を彷徨います。そしてきっぱりとした口調で、こう主張するのです。「私にとって絵画とは、幻想をそこに留め置くためのものではありません。また同時に、現実を描くためのものでもないと考えているのです。


その絵画の中で、見せかけだけの動きをこの画家は描こうとしているんじゃないか、などといった疑問を、その絵を鑑賞する人々の頭に思い浮かべさせないよう、平面的な絵画を私は好んで描きます。それは、自身の作品が何かしらの幻想を生み出してしまうのではないか、という不安から来るものでもあります。申し上げたように、この幻想を生み出す、という絵画の行為は、私にとって重要な事では全くないからです。しかし他方では、これはある意味仕方がない事だと思ってもいるのです。色のレイヤーを隣に重ねて行くだけで、やはりそこには幻想が生まれてしまうのは確かな事ですから。


欺瞞的な見せかけの創作を否定していこうという彼の意図は、様々に異なる要素を通じて、彼の作品の中で繰り返し主張されます。例えば、網目のように交差する線は彼の作品の特徴でもありますが、その線は、芸術を生み出す目的とは何かという事を問いかける自分自身との対話を、まさに今、その作家が行なっていることを示すための、非常に明解なサインとして我々に示されるのです。


もう一つの彼の作品の特徴である、媒体の意味に常に疑問を投げ掛けるという傾向は、彼の絵の中で人間の姿をどう取り扱うかという面によく現れています。彼の作品の中の人間は、ほぼ全てが男性の横顔であり、その多くの場合、彼自身の肖像であったりします。彼の絵の中に描かれる人々は、不自然に引き延ばされ、ありえないほど痩せているか、人としてありない姿をしていて、非常にマンガチックな雰囲気を醸し出しています。



Border Paintingのような、荒地のブルーとジグザグの黄色の線を背景に、二人の、はっきりしない曖昧な人物が描かれたような作品は、このモチーフに魅了された彼の心情をそのまま具現化しているものだと言えましょう。この作家は、自分が絵画の中に見つけた動きを抜き出すと共に、他の反抗的な動きは必ずしも実行されるとは限らない事までも明らかにさせようとしてきます。「絵画という媒体の意味、そしてその制作の過程で、常に苦闘しています。また、自身のそういった苦闘によって、新たな困難が生み出されてしまう、といったようなパラドクスも生まれてきてしまうのです。私は決して冒険を求めるような人間ではありません。常に安全な場所を探しています。もしできる事なら、自分の家やアトリエから、一歩も外に出かけたくないんです。しかし自身の作品では、180度異なる方向を目指しています。私は、自身の足の真下に、自分が倒れるための地面が常にあって欲しいと思っているのです。


落下と浮揚の間で

自身の平衡感覚をわざと失わさせる事を目的に、新たな限界にまで自身を追い込もうとして、彼はよく色々な物を自身の作品の中の目立たない場所に置いたりします。彼の不変的なテーマに、歩いたり浮いたりしている男性のイメージがあります。何よりもまず生き生きとした動きを目指して描かれた、未来的志向の絵画を連想させる、そんな行動が描かれたキャンバスの中に、そういった人物の動きが捉えられていきます。


「走ったり歩いたりしている人物への興味は、そのキャラクターに対してずっと考えてきていた私自身のアイデアから来ているんです。そのアイデアは、特にこの5年間というもの、私が常に自身の作品の中に戻ろうとしていた事に由来します。そう、私は、私が描き続けてきたこの人物は何者なのだろうという事を、本当に長い間考え続けてきたのです。」


「他方、これは絵画のアナロジーでもありますね。その絵画のフレームの中から立ち去ろうとしている人物の描かれた絵を見ると、その作品からは、それまでその絵画の中を占めていた様々な実態が消え去って、空っぽになってしまうかのような印象が感じられるでしょう。またこれは、キャンバスが、最初は真っ白であったことも暗示してますよね。そしてまた一方それは、ひとところに留まりたくない、立ち止まっていたくないという私の感情をも表現しているのです。これは、画家として、非常に重要な事でもあります。」


Yehezkelliは、このインタビューの間も、私たちの後ろの壁に立てかけてあった絵について、いろいろな事を考えていたようです。それは、見る者の方に向かって行進して来るかのような、若しくは離れて行くような、長い手足を持った人物のようなカタチが描かれています。「見て下さい。この絵に描かれたランナー、もしくは歩行者の下には、全く地面が存在しません。足は、全く地に付いていないのです。これは、寄って立つ地面が存在しない事を反映していますよね。もしかするとこれは、眠りの中でよく見る、落下の夢の感覚に似ているかもしれません。でもこの感覚が、私の邪魔をし、かつ私の頭の中から離れない状況なんです。そう、私はこういった感覚をいつも感じているんです。



では、このランナー達は落ちてるんでしょうか?それとも浮いてる?彼は笑いながら「多分両方ですね。」と答えてくれました。


悲劇的な喜劇

Yehezkelliは、自身の作品が芸術の歴史に対応しているかどうかを恐れていません。作品の何点かは、Boy with Red Shirtといった作品のように彼の芸術スタイルを表現しており、キュビズムの画家が好んで用いた、様々な構成要素に物体を細分化して行くような手法で、カラフルな物体が散りばめられています。また、 Angelus Novus (2) のような作品では、有名なドイツ系のスイス人画家、パウル・クレイの用いた正準的表現手法の現代的な解釈を用いて、象徴的な画法を肯定する描き方がなされています。



1920年にクレイによって描かれたそのオリジナルの作品では、心をかき乱すような不穏な表現で天使が描かれていましたが、Yehezkelliのこのバージョンでは、その生き物の歪んだ顔が強調されており、全体的な印象としては、密に色彩が描きこまれた中に織り込まれたその世界へ通じる様々な扉によって、その絵が構成されているかのような感じを受けます。クレーの作品は、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンに評価された事で一躍有名になりますが、歴史の天使を表現したその人物像は、その時代の未来への暗雲に対しての警告であったことが後に明らかになります。「しかし、嵐は楽園から吹き込まれたのだ」と評論家に書かれたように、Yehezkelliの作品の中に染み込んだ感情は、彼の近年の作品の中にも、物悲しい風景や肖像画として様々に描き込まれているのです。


クレーの作品と哲学者のエッセイは、その時代にも世間からの大きな称賛を浴びました。そしてそれがYehezkelliの創作意欲となったことも確かな事です。「ベンヤミンはその文章の中で、過去と未来の両方に目を向けて、来るべき恐怖の感情を表現しました。それこそがまさに私が表現したいと思っている事なのです。この絵画の中の人物は、そんな未解決のまま横たわる災害を絵画の中から見ることができる人物なのです。一人の芸術家として、災害に直面した人間の感情を描いて行くことが非常に大切なことだと考えています。そういった意味で、私の新たな作品には、この汚染された世界や、起こりうる大惨事の次に来る世界の雰囲気が漂っているのではないでしょうか。


Yehezkelliの描く最近の作品は、暗澹たる感情を呼び起こすものが多いことは確かです。しかし、世界を眺める視点で最も大切なことは、常に物事を面白がるところにあると彼は信じているのです。「私にとって絵画は、私の遊び場のようなものです。例えそれが悲劇的なテーマで描かれたとしても、やはりその中には何かしらにユーモアの要素、おふざけや冗談の要素が入っていなければならないと考えています。結局のところ、絵画とはマジックなのです。確かに時に非常に込み入ったマジックになりますが、でも単純なトリックで演じられる作品も中にはあるのですよ。


Shai Yehezkelliの作品はこちらから


テキスト:Joy Bernard