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Art

詩とアートの新たな関係をイスラエル人アーティストに訊く

by 長谷川 雅彬 |2022年04月26日

詩は文学で絵画は芸術なのでしょうか?それとも全ての創作活動はアートなのでしょうか?そんな誰もが一度は感じる疑問を超越したところで創作活動を続けるイスラエルのアーティスト、ニツァン・ミンツに独占インタビューを敢行!詩人であり、ビジュアルアーティストである彼女の創作から、詩とアートの新たな関係を探りたいと思います。


イスラエルのアーティスト、ニツァン・ミンツ

ニツァン・ミンツ(Nitzan Mintz)

イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト。言葉と素材のコラージュで作品を作っている。独学でアートを学び、詩とストリートアートを融合させたそのユニークなスタイルで頭角を表す。公共空間の投棄物、産業資材、ペンキ、文字型紙など、様々なものを作品の素材として活用。ポエム&ビジュアルアートという独特のアプローチが世界的に認められ、これまでにニューヨーク、マイアミ、モントリオール、ロンドン、パリ、プラハ、ウィーン、ベルリンなど、世界各地の様々なアートスペースやイベントで作品を発表している。

https://www.nitzanmintz.com/


―――まず、ニツァンさんについて詳しく教えてください。ご自身のアートをどのように定義されていますか?


まず、私の名前であるニツァン(Nitzan)は、ヘブライ語で「花のつぼみ」という意味です。私は30歳ですが、イスラエルのテルアビブで育ち、今もここに住んでいます。15歳で詩を書き始めてから数年後、私は詩を携えて街へ繰り出すようになりました。壁に書いたり、電柱に古い木片を釘で打ち付けたりして、そこに詩を書いたりしました。こうして私は、言葉や素材、色、物を使った旅の中で、アートへと転がり込んでいったのです。私は自分のアートを「学問を味わうことなく、10年以上にわたって独学で成長してきたもの、直感から生まれるアート」と定義しています。詩のテクスチャーと色彩の間の純粋なつながりとも言えます。私のアートは、視覚的な詩、あるいは詩と抽象絵画の組み合わせと呼ぶことができます。


イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品

―――日本には俳句・短歌といった詩と絵を組み合わせる文化があるので、共感出来るものがあります。ニツァンさんが行うビジュアル・ポエトリーについて、もう少し詳しく説明していただけますか?


ビジュアルポエトリーは、文化の中で様々なものとして認識されることがあります。私個人としては、これは詩人であることとアーティストであることの接点だと思います。この2つの世界の間で生まれたのが、絵画のように素材と色で表現された詩なのです。私のアートには2つのレイヤーがあります。ひとつは、素材、形、色です。作品の中の詩を理解しなくても、そのまま楽しむことができますが、詩の層はそれ自体が世界であり、それを読むことができる人は、絵画だけでは存在しない意味を持つ別の宇宙を現すことができるのです。詩と芸術のつながりは、事前の説明もなく、まったく偶然に私の身に起こったことです。まず詩が生まれ、次に視覚的な素材を探しました。公共の場で創作したいという思いから、マーカーやスプレー、オブジェ、素材、絵の具などを使うようになり、そこから絵画に属する物質的な世界と恋に落ちました。私の手は、常に素材の中で制作すること、そして書くことを求めているのです。


イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品

イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品

イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品

イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品


―――言葉と世界から視覚の世界への広がりはとても自然な流れですね。なぜ、アートの媒体として公共空間を選んだのですか?ニツァンさんにとって、キャンバスや他の素材と、公共空間はどう違うのでしょうか?


17歳のとき、15歳のときから書いていた詩をいわゆる出版業界から出版することに抵抗を感じました。私には、編集者や、詩のイベントを主催する人たち、文芸評論家などを待ったり頼ったりする忍耐力はありませんでした。私が書いたものがいつ出版されるか、誰かが私の代わりに決めてくれたり、変更するように言ってきたり、拒絶したりすることが、どうしても受け入れられなかったのです。私は昔も今もとても内気な人間で、詩のイベント等は私にとって悪夢のようなものでした。詩人にとって、聴衆の前に立つということは、当たり前のことではありません。そうした焦りと経験から、私は公共空間や壁に目をつけました。さっと書いて逃げるのですが、それでもフルネームを書くのはため息もの。実際、グラフィティのような落書きではなく、詩を書いたのは、この国で私が初めてでした。良くも悪くも、私はすぐに周囲の関心を引くようになりましたが、読者層が広がり、誰が詩を出版するかしないかを決める、趣味を決める人たちのシステムを回避できることに気づきました。


イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品

―――確かに詩は文化的なものである一方で、学問や文学というある種の空間に閉ざされていますね。そういった意味で公共空間に詩を書くというのは、ある種の文化的イノベーションだと思います。「志半ばでの挫折」を詩のテーマに選んだのはなぜですか?


私は自分の詩のテーマを選んでいるわけではありません。強い衝動や潜在意識から湧き上がってくるものなのです。私は腹の底から創作するアーティストです。私はうつ病によく悩まされますが、一方で、世界で最も幸せな人間の一人でもあります。この最高の幸せと死にたいという気持ちのギャップから、希望と苦悩、失敗と葛藤、成功と自分と他人のために最善を尽くす試みについての詩が溢れ出てくるのです。私は現実を非常にドラマチックに経験する一方で、完全に無気力な状況に陥ることもあり、私の詩はこの2つの状況とその間の緊張感を表現しているのです。


イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品

―――なるほど。確かに安定は人間にとって本能的な欲求ですが、アートの制作には衝動となる力が必要です。感情の起伏というのはそうしたエネルギーの源になりますよね。ニツァンさんは小さい頃からアートやアートに関係することをやっていたのですか?また、プロのアーティストになるきっかけは何だったのでしょうか?


幼少の頃は、ビジュアルアートはやっていませんでした。子供の頃は合唱団で歌ったり、演技の学校に通わされたりしていました。両親は私がミュージシャンか女優として有名になると確信していましたが、私は文章や詩を書く世界に転向しました。周囲の誰もが驚き、自分でも驚くほど、現在でも少し型破りな生き物として付き合いのあるアートの世界へとどんどん進んでいきました。詩の世界は通常、私をアートの世界と結びつけ、アートの世界は私を詩の世界と結びつけます。ただ、私はその両方に身を置きながら、同時にどこにも属しません。私は20歳の時から、テルアビブで5年間、文章、詩、散文、戯曲、脚本、そして視覚芸術も学びました。そして、今日まで、詩作と美術の両方のコースを取り続けました。勉強したいという気持ちはとても大きいのですが、壁の上で創作し、一人で公共空間を研究する独学者として、最大の教訓を学んでいます。


イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品

―――アートや詩をアカデミックな世界で学びながらも、アカデミックな世界とは距離を置いた場所で制作を続けるというのは非常に興味深いアプローチです。これからのアーティスト活動で実現したいことはありますか?


実は私の夢のひとつは、日本に行って、そこでヘブライ語で作品を創作することです。私の言語の美学に対して、現地の人たちはどのような反応を示すのだろうか、そんな興味が湧きます。日本の壁面に制作し、アートショーに出展して、その文化を知ることは、私にとって豊か経験になるでしょう。きっと、世界のどこでも学べないようなことを、そこで学ぶことができると思います。


イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品

何かを学ぶと、ついつい気づかないうちに学んだことの枠にはまってしまいがちですが、学んだことからあえて距離を置いたり、学んだ枠の外にあえて自分の領域を広げてゆく彼女のアプローチは、私たちの創造性を高める上で誰もが実践することが可能かもしれません。後半では彼女のアートに対する考え方に迫りたいと思います!


イスラエル、テルアビブ出身のアーティスト、ニツァン・ミンツの作品