ビジネスにおけるアートシンキングの重要性
私たちの生活の中で「アート」という言葉を耳にする機会は、かつてないほどに増しています。アーティストの思考プロセスを企業に取り入れるという考えは世界でも広まりつつあり、最近では世界トップのビジネススクールでもその重要性が説かれるようになっています。特にAirbnbやSquareなど、有名スタートアップの創業者たちの多くがアートやクリエイティブ関連の経歴を持っていることから、ビジネスの世界でも急速にその重要性が認識されるようになっているのです。
山口周氏の”世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?(光文社新書)”や関連本がヒットしたことで、日本でもアートシンキングが流行り、最近では日本のいたる所でアートの展示会やアートシンキング関連のイベントやワークショップが開かれるようになりました。
しかし、実はアートシンキングの真髄は、日本ではまだきちんと理解されていません。なぜなら、アートシンキングの極意は美意識や直感といった感覚ベースのものでも、絵を書いたり工作をすることではないからです。”世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること(クロスメディアパブリッシング)”の著者であり、欧州トップビジネススクールの一つ、IEビジネススクールのニール·ヒンディ教授は、「アートとは考え方であり、物を作ることや美意識でのことではない」と言います。
ニール・ヒンディ
イスラエル・テルアビブ出身。アートの世界の実践やプロセス、テクニックを基にイノベーションと創造性に関するトレーニングを提供し、ビジネスと起業家精神にアートの思考を融合するThe Artianの創業者。現在、スペイン国王フアン・カルロス1世によって設立され、同国内で革新を促進する組織である「コテック」の100人のエキスパートの1人であり、欧州を代表するビジネススクールの1つであるIEビジネススクールの客員教授、デザインスクールIstituto Europeo di Designの客員講師、ハーバード大学Leman Program on Creativity and Entrepreneurshipのメンターも務める。
ニール·ヒンディ氏は、これまでにいくつものビジネスを立ち上げてきた起業家でありながら、Monocle Magazineが絶対に訪れるべき美術館の一つとして紹介した、イスラエルのPetach Tikva Museum of Artの役員も務めています。また、ハーバード大学のLeman Program on Creativity and EntrepreneurshipやIE Business Schoolのスタートアップラボのメンターも務め、これまでに多くのアーティストや起業家と接点を持ってきました。
ビジネスとアートの双方の世界に深い繋がりを持つニール·ヒンディ氏は、起業家とアーティストの双方に共通点が多く存在することに気付き、そこからアーティストの考え方をビジネスの世界に取り入れる方法を研究し始めたと言います。そのメソッドの原型は2014年と日本でアートシンキングが広まる遥か前に完成していました。
アーティストと起業家の共通点
では、具体的にアーティストと起業家やイノベーターはどういった点が似ているのでしょうか?まず最初に、どちらも現時点では存在しないものを生み出すという点です。アーティストであれば作品を生み出し、起業家やイノベーターであれば新しいサービスや製品をこの世に生み出します。このゼロから一を生み出す力は、並大抵のものではありません。多くの人々は、周囲からの批判や好奇の目にさらされ、必ずしも周囲からの協力や理解を得られるわけではありません。
次にアーティストも起業家も失敗を繰り返しながらアイディアを形にしていくことが求められます。多くの人は素晴らしい作品や製品が、強烈なインスピレーションや才能によって瞬く間に生み出されたと考えがちですが、実際には数えきれない程多くの失敗やミスを乗り越えて、アイディアを形にしてゆきます。作っては失敗し、失敗をしては学び、学んでは作りというサイクルを繰り返し傑作や世界を変えるような製品やサービスが生まれるのです。
こうした共通点はほんの一部で、例を挙げれば枚挙に遑がありません。ここで大事なのは似ている点の数ではなく、アーティストと起業家やイノベーターには、深い部分で共通点がいくつもあるということです。だからこそアーティストの考え方は、ビジネスにおけるイノベーションの促進に役立てることが出来るのです。
アートシンキングの取り入れ方
では実際に企業勤めをする普通の人々が、アーティストの考え方を実践するにはどうしたら良いのでしょうか?こうした疑問に対して、ニール·ヒンディ教授は観察力と疑問力の重要性を強調します。
企業の商品開発やサービス立ち上げの際に「顧客やユーザーを観察しろ!」ということが頻繁に言われます。顧客やユーザーについて理解を深めることがビジネスにおいて大切だということは、火を見るよりも明らかです。しかし、面白いことに、私たちの多くは学校教育でも企業研修でも、観察する訓練を受けたことなどないのです。観察しろとは言うものの、誰も観察の仕方をきちんと学んでいない。そんな不思議な現象が起きているのです。
ニール·ヒンディ氏は「顔に目が2つ付いていて、漠然と何かを見ていることが観察ではない」と言います。そして、観察とは受動的ではなく、能動的なアクションだと強調します。普段の生活では、ほとんどのことを見落としているのは勿論、見えているものも自分の思い込みや固定観念に影響され、あるがままに何かを見るのは実は非常に困難なことです。アーティストは、常に世界を観察するトレーニングから始まります。リンゴを1日中観察することもざらです。物事をきちんと観察出来るからこそ、新しい視点を持てるわけです。実際にニール・ヒンディ氏が行うトレーニングでは、全ての基礎として必ず観察力の訓練を最初に行っています。正しく認識出来なければ何も始まらないというわけです。
そして、物事がきちんと見えるようになると、次に疑問力を鍛えます。アーティストは常に社会を批判的な視点から見つめ、新たな可能性や物事の意味を社会に提示しています。しかし、一般的な教育の過程や会社では、私たちは教えられたことを覚えたり、指示されたことを黙って行うよう教え込まれます。すると、気がつかないうちに現状や環境に対して何の疑問も持たないようになってしまい、何事も現状維持になりがちです。
日本ではこの傾向は特に強く、疑問ばかり持つ人は周囲から疎まれてしまうことも。こうした状況では現状維持が優先されて、イノベーションは起きなくなってしまいます。なぜなら、イノベーションとは現状を受け入れずに新しい何かを生み出すことだからです。だからこそ、ニール·ヒンディ氏は観察力を鍛えた後に、懐疑的な視点を持つための疑問力を鍛えるのです。
ニール·ヒンディ氏は、こうしたスキルは普段から簡単にトレーニング出来ると言います。例えば、定期的に美術館で作品を観察してみたり、自分の現状や思い込みを書き出して疑いの目を持ってみるなどです。皆さんも観察力や疑問力を鍛えて、アートシンキングを仕事に取り入れてみてはいかがでしょうか?