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As Promised Magazine

砂の城

by As Promised Magazine |2020年08月17日


太陽に目を眩まされ、つぼみは花開き、その茎は大地の奥から弾け育つ。他者の欲望によって磨かれ、新たな姿を目指すストレンジャーたち。未知の素材、異邦の香り、そして若さを身に纏い、現実から切り離されたような存在の彼らは、子供時代の名残までも剥ぎ取ってしまう奈落への道へと突き進む。その目は閉じられたまま。しかし太陽はまだ眩しすぎる。



長い足、柔らかな曲線、そしてそのふくよかな唇から発する力に自分では気付きもせず、砂漠のティーンエイジャーたちは、その地の熱が身体から発するまで、太陽に向けて頭を傾ける。写真家アロン・シャステルが向かうのは、ソドム山と死海の地。ソドム山の展望地に向かうその道は、古の聖書時代には罪に満ち、罪によって傾きし土地。そして今は、地雷原と険しい崖に囲まれた土地。若さという罪が無意識のうちに創り出す彼らの官能に魅了され、シャステルが描くのは倦怠だ。それはどんな形を取るのか、そしてそれはどこに向かうのか。我々に痛みさえも感じさせる、今最も熱いそのクールな表現に、あなたはどこまで魅了されるだろうか?



「見えるものには価値がある。」移動するジープの中、肩越しに彼はこう語る。経験とは、自分の選択した道筋に対して本当に価値のあるものなのか?一度経験してしてしまえば、見たもの、そして知覚したものは、具体的な何か、また抽象的な何かとしてでも、心の中に残り続ける。しかし、見えるものを見えなくすることは出来るのか?経験が、自らの意図していたもの以上になってしまった時、その経験は蓄積されていくことが出来るのだろうか?味わったこと、見たこと、触ったこと、愛したこと、そういった事に後悔を感じてしまった時、心の中の記憶を消していく事は出来るのだろうか?もし経験が、記憶していることの全てでないとしたら、自分をそれ以前の自分に戻す事など出来るのだろうか?




無邪気さを装う子供たち。しかしその無邪気さを見たままに捉える事が出来ず、真逆に思うかもしれぬ大人の目にはどう映るのか。この一連のシリーズは、そんな視点を強調する。子供時代とは、主観的なものなのか、それとも客観的なものなのか?肉体的な成熟とは、成人すると同時に獲得するものなのか?やはり経験こそが、成人期と子供時代を繋ぐもののようだ。経験だけが唯一の楽しみであるような時期を、どのようにしてティーンエイジャーたちは過ごしていくのか、その瞬間をシャステルは写真の中に捉えていく。子供時代の友情が性的な欲望に変わる瞬間、それは今までくすんでいた外見に光を投げかける。イェルハムからソドム山に向かう中、道路の両脇には、地雷原を通行者に警告する金属のフェンスが、常に道のどちらかに見えていた。経験を積んでいく事で、感覚が次第に鈍っていく事は避けられない。子供たちが成熟へと向かう過程を描くこの原シリーズは、そんな事実を我々に突きつける。その光景に向かう道、大人の経験に向かう道は、恐るべきものに思えるかもしれない。しかしそれはある意味、地雷除去作業のようなもの。皮肉にも、青春時代だけが持つ繊細な勇敢さを通してしか、人は経験の美しさを感じる事が出来ないのだ。


Photos by Alon Shastel Styling by Maya Roo Words by Meryl Fontek