
イスラエルでは母親になってもキャリアを続けるのが一般的で、大多数の家庭では、父親も母親も働き、育児を分担しています。
一昔前は、女性は家にいて家事や育児だけでなく、料理、掃除、子どもの教育、来客のおもてなしなどをすることが当たり前でした。そうした母親の努力と社会への貢献に対する感謝の気持ちとして、イスラエルの「母の日」は制定されました。

しかし、この「母の日」、実は90年代に「家族の日」として改名され、イスラエルの全ての祝祭日と同じように、この「家族の日」はユダヤ暦(ユダヤ教の儀礼として今日使われている太陰太陽暦)上でもお祝いされています。そのため、グレゴリオ暦上では異なりますが、通常ユダヤ暦上では、イスラエルの「家族の日」は2月になります(※イスラエルでは、建国以来ユダヤ暦とグレゴリオ暦が公式カレンダーとして用いられています)。
もともと「母の日」と名づけられた日は、「子ども達の母」との愛称で親しまれ、アメリカ・女性シオニスト機構(Women's Zionist Organization of America)「ハダサ」を創設したヘンリエッタ・ソールド(Henrietta Szold)が亡くなった2月に制定されました。
なお、多くのイスラエル人は、ユダヤ暦上での「母の日」をお祝いする一方で、5月の第2日曜日に制定されている国際的な「母の日」も祝福しています。

ハイファ市内から始まったイスラエルの「母の日」
1951年に当時のハイファ市長、アバ・フシ(Abba Hushi) は、イスラエルに「母の日」を新たに制定。この出来事は、ハイファ市内の社会事情に変化をもたらし、市民の気分を高めました。
アバ・フシは、この「母の日」には男の子も男性も家事に参加し、母親にプレゼントをすること、そして女性に木々を植えることを提案しました。夜になると、ハイファ市内の至るところでパーティーが開かれました。
このイベント以来、母の日はハイファ市内でお祝いされるように。街は装飾され、母親向けの特別ショーなどが開催されたり、病院で勤務する母親達は「母の日」の賞状を授与されました。
こうして、だんだんとハイファ以外の街にも「母の日」が浸透し、祝福されるようになりました。イスラエル政府が正式に「母の日」を制定しなかったため、各市が異なる日程でそれぞれの「母の日」を祝福しました。次第に、異なる日で祝福していることへの批判も出始め、1974年にイスラエル教育省は「母の日」を祝う日を正式な日として制定したのです。
「母の日」から「家族の日」へ
「母の日」をめぐる論争は次第にその重要性を増し、多くの人はこの日を「両親の日」に変えるべきではないかと反論。最終的に、1990年代に「家族の日」として改名され、もともとの「母の日」と同じ日に「家族の日」が制定されました。現在では、家族間の絆を深める日という意味合いが強くなっています。

2016年には、追加で「イスラエル人の母の日」を別途改訂する動きもありましたが、これについてはまだ結論に至っていません。
「家族の日」では、母親だけなく、父親、そして兄弟、姉妹にもプレゼントやカード、お花を送り合うことが習慣になっています。この日が近づくと、お店では「家族の日」にちなんだ特別オファーを出したり、各都市でショー、料理ワークショップ、美術館・博物館でのアクティビティ等家族向けイベントを開催しています。
イスラエルの「家族の日」は国民の祝祭日ではないため休日ではありませんが、多くの人が家族と過ごし、休暇を取って旅行に行くなどして思い出を作るのです。