ハマスのテロ攻撃に起因する紛争でイスラエル情勢が緊迫する中、すでにイスラエル在留邦人の軍用機などによる退避がはじまっています。10月20日までに韓国の軍用機、日本政府のチャーター便、および自衛隊の軍用機による輸送がすでに行われました。
当誌では、テロ攻撃開始から1週間後の10月14日未明に現地を出発した韓国の軍用機で帰国したばかりのシュロマイ由香利さんに、迫りくる危機の中での出国について詳しくお話を伺いました。
目次
【Day 1】6:30AM ハマスがイスラエル南部でテロを開始
10月7日(土) の朝8時過ぎ、日本人グループでスポーツの練習をするため、体育館に向かいました。朝6時半にはイスラエル南部の街はハマスの奇襲攻撃を受けていて、既にテレビなどで報道もされていた時間だと思うのですが、忙しくてテレビを見ずに家を出たため攻撃のことは知らなかったのです。異様に道が空いていて変だなと思いながら運転していたら、飛んできたミサイルが迎撃されるのが見えました。
イスラエル在住の日本人でも、テルアビブ以南にお住まいの方は迎撃シーンを見る機会もあると思います。しかし、私たちの住む街は北部に位置しガザ地区からは遠いため、これまでミサイルはおろかサイレンも聞いたことがなかったのです。そのため、ミサイルが飛んできたときに取るべき行動を知りませんでした。危険回避のガイドラインとしては、車に乗っている時にサイレンが鳴ったら、速やかに車から降りてその場から離れる必要があるとされているそうですが、知らなかったのでそのまま車を体育館まで走らせました。
そして、到着してグループの方たちと合流してはじめて南部でテロ攻撃があったことを聞いたのです。その混乱による影響で、テルアビブなど中央地区から参加予定の方たちが来れなくなりましたが、その日は集まった人たちだけでやろうという話になり、練習していたら再びサイレンが鳴って体育館のシェルターに駆け込みました。
今思えば恐ろしいことですが、今までミサイル攻撃を受けたことのない地域に住んでいるので、流石にここまではそんなに飛んでこないだろうと高をくくっていたのです。昼過ぎに自宅に戻ってからニュースを見て、とんでもない事態になっていることにやっと気づきました。
【Day 2】レバノンから迫撃砲弾が撃ち込まれる
8日(日)には、イスラエル側の死者700名との発表がありました。テロリストが侵入した南部の集落の住民や、野外音楽フェスの参加者が虐殺された悲惨な状況も徐々に詳細が伝わってきました。信じられない思いでしたが、それでも戦闘開始から2日目あたりまでは、なんとかなるんじゃないかと思っていました。
【Day 3】イスラエルは過去最高となる30万人の予備役招集
9日(月) には、イスラエル側の死者900名、数千名が負傷と報道されました。ここまでの3日間は、南部のテロリストたちへ対抗するため激しい戦闘が起こり、死者も毎日数百名単位で増えていきました。シェルターに入れば大丈夫かなと思い、シェルター内で過ごす事態に備えて水や食料などを充実させました。この頃からスーパーから物がなくなり、またひどい混雑で、米と小麦粉を買うのに1時間ほど列ぶありさまでした。
【Day 4】外務省がイスラエルの危険レベルを最高の「退避勧告」へ引き上げ
南部のテロリストが鎮圧されたとのニュースが流れた10日(火) 、日本大使館からの安否確認が来ました。すでに南部に住む日本人には電話していたようですが、私たち北に住む日本人にはこの頃まで安否確認の連絡は来ていませんでした。この時点で、イスラエルに住む自国民の輸送のために数カ国がフライトを用意したと聞いていたので、焦りを感じはじめていました。
帰国便のチケットを調べ始めましたが、残席があっても名前やカード情報など必要事項を入力し終わって、購入ボタンを押す間に席がなくなっていて買えなかったり、値段が普段の4倍ほど(エルアルの直行便で一人5,000ドル程度)であったりで諦めました。
水も買えない状況となり、パニックに襲われたりよく眠れないようになり、子どもたちのことも不安にさせていると感じていました。
【Day 5】ハマスの幹部ら2人死亡、戦況激化
11日(水) に、大使館からチャーター機に関するアンケートメールが届きました。日本までの直行便ではなく、欧州または湾岸諸国等の都市までの輸送となる可能性が高いとのアナウンスでしたが、利用を希望すると返答しました。イスラエル側の戦死者は1,200名、負傷者2,400名、200名ほどがガザに拉致されたまま。
【Day 6】ブリンケン米国務長官がイスラエル訪問
6日目となる12日(木) 、初めて自宅から数キロ先にミサイルが落ちる音を聞きましが、サイレンは鳴りませんでした。この時、私たちの住む地域はミサイル攻撃を受けた前例がないため、攻撃への備えがない、万が一もあり得るかも知れないと脅威を感じました。
【Day 7】イラン外相がヒズボラ指導者と会談
ストレスで眠れずに居たところ、日付が13日(金) に変わってすぐの深夜に、大使館からフライトに関するメールを受け取りました。韓国軍用機は韓国人が優先で、残席数不明かつ先着順ですが、ソウルの空港まで無料、その後は自費での移動。日本政府によるチャーター便はドバイまでで料金は3万円、ドバイで降りた後は自費という内容でした。韓国便の締切が朝10時、ドバイ便の締切が午後3時で、悩みましたが深夜のうちに韓国便を希望する旨を伝えたところ、午後になってから席が確保できたと連絡を受けました。
朝起きてから韓国便に申し込んだ方は、定員オーバーとなり乗れなかったようでした。韓国便に乗れなかった方の受け皿となる、ドバイ便に乗ったのは8名だけだったそうです。普段ならドバイは乗り換え地として何の問題もありませんが、有事の際にイスラエル国籍を持つ子どもを連れて行くのが心配で選択しないという方が多かったように思います。
午後2時すぎに返答をもらい、空港集合が午後7時半、フライト出発予定時刻は夜23時半。自宅から空港までが1時間半くらいかかりますので、実質帰国が確定してから3時間ほどで家を出たことになります。出発までの間、ソウルから日本の実家に近い名古屋空港までのフライトを手配しました。
【Day 8】出国日:ハマスが「怒りの日」抗議活動呼びかけ
13日のうちに出発予定でしたが、実際には若干遅れて14日(金) の0時を回ってからとなりました。軍用機というイメージと違って、大韓航空機の機体からモニター画面を抜いたような感じで、基本的にほぼ民間機と同じでした。写真撮影は厳禁、ソーシャルメディアなどにも載せないようにというアナウンスが繰り返されました。機内は満席で、日本人は後方にまとめて席が割り振られました。
軍用機だから食事もないと聞き空港で食料を調達しましたが、実際には韓国軍が、イスラエルのケータリングサービスに注文した美味しい食事を用意してくれました。その準備などのため、若干出発が遅れたようです。実は一か月ほど前まで夏休みで日本に滞在した後、大韓航空を使ってイスラエルに戻ったのですが、その時のフライトに比べても快適に感じましたし、子どもたちは、料理も今回のほうが美味しいくらいだと言っていました。また、給油地のスリランカでも食事を積み込み提供してくれました。感謝しかありません。
多くの方は、軍用機の最終目的地であるソウルで宿泊をしてから、日本へ帰るためにホテルを手配していましたが、私たちは宿泊せずに直接日本まで飛びました。フライトが確定してから日本の実家にたどり着くまで、丸2日が経過していました。夫は志願兵としてイスラエルに残っており、また様々な理由で現地に留まっている方々のことを考えると申し訳なく、手放しで喜ぶ気持ちにはなれませんが、ひとまず子どもたちを安全な場所に連れてくることができてほっとしています。
【さいごに】帰国して思うこと
どの戦争でも同じように、一番大きな被害を受けるのは双方の一般市民です。直接生死に関わる体験をしなくて済んだ私ですら、帰国後の近所での花火の音に驚いて、反射的に布団から飛び出した程でした。日中は元気にしている子ども達も、戦争開始後から始まった夜泣きが未だに止みません。3日間、夫と連絡が取れないと、心が不安で押し潰されそうになります。頭上を飛ぶ自衛隊機を、昨日初めて怖いと感じました。
こんな程度ではない心の傷を抱えることになった人達を、山程知っています。そしてその数は、日々増え続けています。いつ終わるのか…。毎朝起きて一番に見るもの、毎晩夜寝る前に最後に見て考えるものが、戦争以外の何かになる日がどうか早く来ますように。