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FOOD

イスラエル日本食ブームの生みの親、アリ・グロスマン

by 中島 直美 |2022年04月08日

アリさんと2人の娘さんとお孫さんとの集合写真です。
2人の娘さんとお孫さんの集合写真

現在のイスラエルは「人口当たりの日本食レストラン数が世界(日本を除く)で3位以内に入る」などという噂がまことしやかに囁かれるほど、日本食レストランが乱立しています。日本人シェフが包丁をふるう本格派から、イスラエル人に馴染みのあるアジアンテイストメニューを「ジャパニーズ・フード」の名で全国展開で提供するチェーン店まで。すでに「ブーム」というよりも、これが通常。「日本食」はイスラエルのフード・カルチャーにおいて一人前の市民権を得たと言っても良いでしょう。


全国展開しているアジアンレストランチェーンの写真です。
全国展開しているアジアンレストランチェーンの一つ。イスラエルの小さな町でもスシが食べられるようになりました。個人経営の日本食レストランも増えています。

今回は、イスラエルの日本食ブームの生みの親、イスラエルで初めて日本食レストランを開いた、アリ・グロスマンさんにお話を伺いました。


アリ・グロスマンさんの写真です。
アリ・グロスマンさん。日本人の礼儀正しさ、思いやりの心を尊敬すると言います。

日本食との出会い、そして日本食レストランを開く決意

アリさんがイスラエルで初めての日本食レストラン「高丸」を開いたのは1990年のこと。第1号店は、テルアビブ近郊の街ヘルツェリアに開店しました。今では、MicrosoftやIBMといった名だたるIT企業の建物が密集するビジネス街となったヘルツェリアですが、30年前のイスラエルはまだまだIT産業がそれほど活発ではなく、ヨーロッパからの旅行者やダイヤモンド産業などで、細々と外貨を稼いでいたような時代でした。


イスラエル、ヘルツェリアの様子
ヘルツェリアのビジネス街

「今では次々に新しい高層ビルが立って、すっかりにぎやかな街になったヘルツェリアだけれど、あの頃は本当に何もなかった。日本人も、大使館とダイヤモンド関連の方が数えるほど。のどかなもので、なんとなく皆が顔見知りという状態。今のように、日本の総合商社にお勤めの方が、家族連れでイスラエルに赴任するなんて、想像もつかなかった」と言います。


日本人が多いわけでもない、イスラエル人も日本食に取り立てて興味があるわけでもない…。そんな時代に、なぜ日本食レストランを開こうと思ったのでしょうか?


「もともと、日本には憧憬のような気持ちはありました。初めて日本食に出会ったのは、70年代後半から80年代前半にかけて、アメリカ・ニューヨークで暮らしていた頃です。でも正直、その時食べた日本食は美味しくなかった(笑)。その後、1985年に日本に住む従兄に会いに行き、ついに日本の地を踏んだのです。初めての日本でしたが、デジャブの様なものを感じました。まったく知らない場所なのに、懐かしいような。それまでヨーロッパやアメリカなど、様々な国を旅行してきましたけれど、あんな気持ちになったことはそれまで1度もありませんでした。日本に魅了されましたね。1か月ほど日本を旅行して、イスラエルに帰りました。そこからです。いつかイスラエルに日本食レストランを開く。それが僕の夢になったのです」とアリさん。


お孫さんとお寿司を楽しむアリさんの写真です。
お孫さんとお寿司を楽しむアリさん

大きな壁となった日本食材の輸入

しかし、そこから実際にレストランを開くまでは、5年もかかったと言います。


「なにしろ、日本食材が全くなかったのです。醬油、味噌、海苔、豆腐、わかめ、丸い粒のお米…そういった、今ではイスラエルでも気軽に入手できる食材が、その頃は一つもありませんでした。輸入の許可を得るまでが大変でした。」


日本の食材

こんなものをどうやって食べるというのか、どんな需要があるのか…多くの人にそう言われたとアリさんは言います。


それでも、輸入許可を得るためにアリさんは担当者に働きかけ続けました。ある時、偶然にも、輸入担当の新しい責任者が日本食にとても理解を示す人でした。なんと、その方の息子さんが仕事で日本に住んでいて日本食のファンになり、その素晴らしさを普段から聞かされ続けている、というのです。アリさんの日本食に対する熱い思いが功を奏し、輸入許可のための手続きは前進しました。ついに、日本食レストランが誕生する運びとなったのです。


オープンした当時に高丸が受けた取材が掲載されている新聞の写真です。
高丸をオープンした当時、新聞の取材が次々に訪れました。
高丸について書かれた記事の写真です。
高丸について書かれた記事。料理だけでなく徹底した日本風サービスも評判を呼びました。

イスラエル初の日本食レストラン誕生

あくまでも高級な、本物志向にこだわるアリさん。

レストランの二階には畳を敷き、お座敷を作りました。レストランで働くウェイトレス、ウェイターには日本式サービスのコースを作りそれを受講させ、まだ誰も知らない日本食に関する説明も間違いなくできるように、徹底して教えたのです。調理師さんも日本から招聘し、輸入する食材も一つ一つ全て自分で味見して「日本で食べた日本食」に近づくように最大の努力を払ったと言います。


レストラン高丸のメニューの表紙
レストラン高丸のメニューの表紙
 レストラン高丸のメニュー。値段や表示名が今とはずいぶんと違って時代を感じさせます。
 レストラン高丸のメニュー。値段や表示名が今とはずいぶんと違って時代を感じさせます。

「ローカライズされて味の変わったジャパニーズ・フードでなく、本物の日本食をイスラエルでも食べられるようにしたかったのです。水の質が、イスラエルと日本では全然違う。私が最後に経営したレストランには、硬水を軟水に変える機材を水道に取り付けました。それから日本で受けたサービス。あれをこの地でも実現させたかったのです」と、アリさん。


メニューについても、人々に啓蒙していかなければならなかったとアリさんは言います。

「黒い紙みたいな海苔やワカメを気味悪く思う人もいたし、豆腐だって白いブヨブヨした味も歯ごたえもないただの塊と思う人が続出。ワサビにいたっては、アボカド・サラダかピスタチオ・アイスクリームと勘違いして直接大量に口に入れて、むせて咳き込むお客さんさえいました。」


それでも、プロモーションに様々な工夫を凝らすなどして、日本食をイスラエルに広めていったアリさん。今までイスラエルになかったレストランの独特の世界観と、本物の日本食に新聞の取材は後を立たず、たくさんのお客さんを集めました。


日本文化と日本食についての講演会の広告の写真です。
まだ認知度の低かった日本食を広げるために、様々なイベントも開催しました。日本文化と日本食についての講演会の宣伝です。

「あの頃は本当に少人数だった大使館の皆さんも、良くレストランに来てくださいました。2階のお座敷は一種のたまり場の様な雰囲気になっていましたね。皆さんには本当にお世話になりました」と、昔を懐かしむアリさん。


高丸は大成功をおさめ、テルアビブのヒルトンホテルに第2号店を出店しました。

高丸はまた、イスラエルのフラッグ・キャリア、エルアル航空が運航するNY行のビジネスクラスとファーストクラス及び日本行きのチャーター便の機内食を提供したそうです。


「エルアルは、“ユダヤ人が安心して飛行機に乗れる”ことをウリにしていますから、安息日はしっかり守るし、提供する食事も全てユダヤ教の食物規定に沿ったものでなくてはなりませんでした。食物規定に従った調理場が見つからなくて、復路に提供する食事をイスラエルで準備して飛行機に乗せたこともあります。気圧や温度の関係で味の感じ方や歯触りが変わってしまうこともある。メニューを考えるために、何度もエルアル航空の飛行機に乗って、上空で食事テストを行いました」


90年代に出されたエル・アルの新聞広告の写真です。
90年代に出されたエル・アルの新聞広告。「ヒルトンホテルの日本食レストラン、高丸の日本食が供されます」と書かれています。

その甲斐あって、エルアル航空の日本食は当時大変な評判を収めました。


イスラエルの日本食レストランの現在

この様に、パイオニアとしての様々な困難を乗り越えて開店したレストラン「高丸」。アリさんが1999年に経営から手を引き、その後2000年に閉店するまでに、高丸は多くのイスラエル人に初めての、そして本物の日本食を提供し続けました。その後アリさんは「大波」や「白戸屋」といった様々な日本食レストランの経営に関わってきましたが、現在は健康上の理由などから、レストラン経営には関わっていないそうです。


「最後に経営したレストランは白戸屋ですが、この時は日本食レストランがイスラエルの様々な場所にあって、時代の違いを感じました。白戸屋を続けられなかったことは残念ですが、この場所を引き継いでくれたラーメン屋「麺点点」が機材なども引き継いで使ってくれているし、何よりも現在イスラエルでは多くの日本食レストランがあって、日本食は立派に市民権を得ている。ユダヤ教の食物規定を守った日本食屋もあり、日本食愛好家の裾野は拡がっています。中にはこれが日本食?と疑いたくなるようなメニューもあって玉石混交の感もあるけれど、それだけ厚い層の日本食レストランがイスラエルにあるということ。一号店の生みの親としてはうれしい限りです」とアリさんは言います。


イスラエルの日本食レストランで出されたスシ
餃子。豆腐を使ったベジ・餃子も人気です。
餃子。豆腐を使ったベジ・餃子も人気です。

今後のイスラエルの日本食事情について

レストランの経営はどの国でも簡単な仕事ではないと思いますが、イスラエルにおける飲食店経営は、最も難しい仕事のうちの一つであるとも言われています。イスラエルでは開店から5年間生き残ることができるレストランは全体の20%以下と言われるほどで、慣れ親しんだレストランがいつの間にか閉店して店主が変わったとか、別の料理店になったとか、そういった入れ替わりは日常茶飯事。特にコロナ禍では、経済的な打撃を受けたレストランも少なくありませんでしたが、日本食レストランはイスラエルに根付いています。


それでもアリさんは言います。「日本食レストランがイスラエルに増えたとはいえ、日本食の本当のすばらしさや多くのメニューは、まだ十分に浸透していないと思います。天ぷらなども、あるにはあるけれどまだその良さが十分に理解されていない。それから今後は、安くて、美味しくて、健康的な、そしてもっと庶民的な日本食がイスラエルにも入ってきてほしいと思っています。僕自信は、気軽に立ち寄って一杯ひっかけられるような、焼き鳥専門の屋台をやってみたいなとも思っているんですが…」


エビの天ぷら。これは食物規定を守らないレストランならではメニュー。
エビの天ぷら。これは食物規定を守らないレストランならではメニュー。
最近はラーメンも比較的ポピュラーになりました。質に関してはまだまだ当たり外れが大きいというのが正直な感想。
最近はラーメンも比較的ポピュラーになりました。質に関してはまだまだ当たり外れが大きいというのが正直な感想。

イスラエルの外食は本当に高価なため、筆者もイスラエル在住の日本人として、気軽な値段で気軽に食べられる美味しい日本食レストランが増えてくれることを、心から願っています。焼き鳥屋さん、ぜひやってほしいです!


多くの困難に立ち向かい、日本食をこのイスラエルに初めて紹介したアリさん、これからも、常に本当の日本の味をイスラエルに広めていって下さい!