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CULTURE

日本でも公演。様々なジャンルの音楽を融合させ表現するミュージシャン、ディクラ。

by Rotem Kles |2020年07月27日

ディクラのポートレート

イスラエルで最も有名なミュージシャンであるディクラ。音楽教育を受けたわけでもなく、楽器も演奏しない彼女がどのようにしてイスラエル音楽界のトップに昇りつめたのか。2019年には日本公演も果たし、活躍の場をイスラエルだけでなく世界にも拡げる彼女。その背景には、幼少期の環境が大きく影響しているようです。


今回は、彼女の音楽がどのようにして確立されたのか、彼女にとって音楽はどういったものなのか、日本公演の印象やCOVID-19による影響など、イスラエルを代表するミュージシャン、ディクラの全貌に迫ります。


イスラエルでアーティスティックな革命を。

若い頃から、いつかイスラエルでアーティスティックな革命を起こそうと心に決めていたディクラ。彼女は小説を書いたり、作曲や創作をすること、そして現状を変えることをいつも夢見ていました。


子どもの頃って、色々な目標を持つものですよね。あれこれ思い描いて、未来は輝いていて素晴らしく見える。でも人生は実際には少し違っているもの。私は自分の目標を実現していると思うけれど、それは思い描いたとおりだったかしら?そうと言い切る確信がないわ」と彼女は語ります。


しかし彼女の経歴を見れば、多くの偉業を成し遂げてきたことは疑いようも無いでしょう。


様々なジャンルの音楽に触れた幼少期

ディクラと音楽との出会いは、幼少時代に遡ります。


イスラエル南部の町ベエルシェバで生まれたディクラ。彼女の家では、アラブ音楽やエジプト、トルコの音楽に加えて、アメリカや新生イスラエルの音楽が流れていました。好奇心旺盛な少女は、周囲からあらゆることを吸収し、近隣で聞こえるメタルやクラシックに至るまで、あらゆる種類の音楽に触れていました。


幼少期の頃から音楽が身近な存在であり、今日彼女が作る音楽にもそのことが強く反映されています。その音楽性は特定のジャンルによらず、黒と白、東と西、現在と過去など、様々な事象の組み合わせによって表現されています。全てを内包できるもの、様々な色彩を探し求めていながらも、その筋道は明確です。


私にとって一番の影響は、やはり自分の家族と地元の人たち。なかでも特に影響を受けたのは、ダヴィッドという隣人の影響が大きいです。」その隣人がテープレコーダーと大量のカセットを詰め込んだ袋を脇に、ブロック塀の上に寝転んでいるのを、通学路でよく見かけたのだとディクラは語ります。


学校の行き帰りに、よく彼と座ったものです。たぶん彼に近づこうなんて私ぐらいだったでしょうね。それで一緒に音楽を聴いていました。そうして何時間も、言葉を交わすことなく、お互いを知ることもなく。そのことは私にとても強い影響を与えたと思います。彼は音楽を聴くことだけで存在していた、そしてそのことは私にとって多くのイマジネーションを与えてくれたのです。



「音楽は治療のツール」

幼いころから様々なジャンルの音楽に触れてきたディクラ。音楽を通じてどんなメッセージを伝えたいか、次のように述べています。


私はまず、音楽を通して自分自身を癒したいのです。私は先生ではありませんし、これまで一度も自分の音楽を教育的なツールとして捉えたことはありません。むしろ治癒のツールだと思います。結局のところ、ストーリーは平凡で、起承転結があって、愛の物語もあれば、裏切り、失望、叶わなかった夢の物語もある。メッセージは決して一般的であったり、自分を導くイデオロギーのようなものではありません。ようするに、私のメッセージは、今になって思い返すと、何も無くても多くの事ができる、ということでしょうか。


現在イスラエルで最も有名なミュージシャンの一人であるディクラですが、実はしっかりとした音楽教育を受けたことは無く、楽器も演奏しません。それでもトップスターに昇りつめた理由について、彼女は次のように語ります。


人はたとえ勝ち目は無いと思えても、自分を信じて進むべきなのです。それが表向きのメッセージで、物語の大枠としてある。その本質は、人生の時間であり、日常や恋愛関係や、関係がうまくいくように大変な努力をしたり、といったことなのです。私はそれにこだわりがちなので、自分自身に囚われていること、考え方、過去から癒されたいと願います。私たちは自分自身でいられないことも多いですし、あなたが一体本当は誰なのかなんて、この騒々しさの中でどうして分かるかしら?




出産を機に知った新たな一面

イスラエル音楽界で目覚ましい活躍を見せるディクラですが、プライベートでは数年前に初めての出産を経験し、彼女に大きな影響を及ぼしました。


出産を機に突然自分に母としての一面を見たのです。年を重ねるまでそのことを知りませんでしたね。自分はアーティストであり、舞台や芸術、音楽のために全てを捧げているという自負があったので。

私にとって活動を休止することはとても困難なこと。というのも私は楽曲をたくさん作っており、常に創作していないといられないのです。音楽を作っていないと、その場に身を置いていないといられない。それが私にとっての生きることだから。でもそれ以上に、娘に会わずにはいられないわ、娘は何よりも強い存在なの。


そして2014年、YouTubeの再生回数が数百万回越えのヒット曲の数々を世に送り出し、一躍ブレイク。ラジオでも彼女の曲が、ひんぱんに曲が流れるようになりました。それまでは、クオリティの高い歌手としての評価はありつつも、知名度は高くありませんでした。

以来、彼女の活躍は留まることを知らず、数々のヒット曲やクリップを発表し、イスラエル国内で最もメジャーなステージにも多く出演。そのような中ではじまった、この新型コロナウイルスの感染拡大。それは新しい現実をもたらしましたが、それに順応するのは容易ではありません。


この危機が始まって最初の数か月は、良い状態でした。静かで、誰もあわてて電話をかけてこないし、何も急を要することがなくて。ある種の心地よさがあって、何だか休暇のような感じでした。

もちろん心配事も多かったのですが、それは仕事や収入の心配ではありませんでした。仕事には多くのストレスを伴うので、そこから解放されたよう気分でしたね。それぞれが自分の立ち位置を確認する時間というか、私にとってはとてもいい経験でした。

今は少しずつ再開していますが、その少し開いたすき間から、ストレスが戻りつつあります。お金はどうなるのか、経済はどうなるのか、といった心配が原因です。

今、新たなストレスにさらされています。ステージに立っていいものか、だめなのか、そこからどれぐらい収入を得られるのか。今はライブができないのに、歌をリリースするべき時だろうか。私にとってその二つは一緒でないとならないので。自宅待機中は曲を書きませんでしたが、この1か月で徐々に再開しています。


2019年、初来日公演へ

そして2019年、東京で開催されたエルサレム・デザイン・ウィーク@DESIGNART TOKYOのイベントに招致され、ディクラは初来日を果たしました。ふたつの国の距離や違いからくる不安にも関わらず、彼女は日本をとても気に入ったと言います。



日本は想像と違っていたんです。それは、大勢の温かいイスラエル人や日本人に出会えたからかも知れません。安心できて、とても居心地良く感じられました。


ディクラは、日本公演で初めてヘブライ語で日本の観客に向けて歌を披露した時の印象を次のように語りました。


日本のお客さんはとても優しくて、感動しました。私のことを全く知らないのに、皆さん笑って、盛り上がって、拍手してくれました。そのことにとても心打たれましたね。よそ者である感じがなくて、いつもなら知らない場所で歌うのは怖いのですが、この時はそう感じませんでした。日本で体験した色々な素晴らしいことの中でも、ライブは本当に最高に貴重な体験で、心から楽しく歌うことができました。ライブ中に、自分の娘ぐらいの年の日本の女の子が目に入ったので、そちらの方に歩いて行き、その子に向かって歌うと、周りの大人たちは喜んで涙を流してくれました。



そして日本で非常に強い印象を受けたことから、帰国後にリリースした「Rak Tagidi(言ってお願い)」という曲では日本への旅について歌い、歌詞には「ありがとう」という言葉を入れたのでした。そして「ありがとう」の言葉を中心に、全てがそこに繋がるように構成されています。


“Rak Tagidi” (言ってお願い)


初来日をきっかけに日本のことが好きになり、将来日本のアーティストとコラボレーションをしたいという気持ちも高まったと語ります。


音楽を通じて文化をつなぐことで、新たな言語が生みだせると思うのです。


そんなディクラが日本の皆さんにお勧めする曲はこちらです。


“Sheva Ba'erev”(夜7時)


“Ve'im Preda”(そしてもし別れるなら)


“Maskara Shchora”(黒いマスカラ)


ディクラのCDは下記ウェブサイトより購入できます。

https://www.sambinha.com/