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CULTURE

多様な文化が交差する地・アッコ旧市街|イスラエル世界遺産シリーズ VOL 02

by Katsuya |2025年05月30日


日没時のアッコ旧市街・南海岸

イスラエルの世界遺産をご紹介するシリーズ第2弾。

今回は、2001年に世界文化遺産に登録された「アッコ旧市街」です。

紀元前1700年頃に貿易で繁栄したイスラムの要塞湾岸都市の魅力に迫ります。


アッコ旧市街って、どんな場所?

地中海に突き出た岬を利用した都市「アッコ」は、イスラエル北部の西ガリラヤ地方に位置する街で、5000年にわたり歴史を築いてきました。現在、イスラエル建国後もこの地に残ったパレスチナ人の居住区となっています。


アッコ旧市街の狭い通り


古くは地中海に面する重要な港湾都市として、また聖地エルサレムへの玄関口としてイスラム教とキリスト教の勢力が支配を巡ってせめぎ合ってきた場所です。
現在の街並みのほとんどは、18世紀から19世紀にかけてオスマン帝国が築いたものといわれています。

しかし、その奥深さは実は地下に。なんと、地下には12世紀に十字軍が築いた要塞があり、さらにその奥に当時の街並みが残されているのです。キリスト教の礼拝堂、脱出用のトンネル、商店街など、十字軍の時代の遺跡が残るとともに、今後さらなる発掘の可能性があることから注目を集めているエリアです。


アッコにあるテンプル騎士団の地下トンネル

アッコの歴史は、紀元前フェニキア時代にまでさかのぼります。フェニキア商人の地中海交易の拠点として発展した地として知られるアッコ。
第1回十字軍結成後、1104年にアッコはエルサレム王のボードゥアン1世によって攻め落とされます。その後、ボードゥアン1世はアッコをエルサレム王国の首都およびパレスチナの中心都市として整備したのです。
また、1291年、当時の十字軍が中東に保持する最後の拠点となったアッコは、マムルーク朝エジプトによって陥落。
16世紀は、オスマン・トルコに制圧され、現在の旧市街の基礎が固められました。
なお、1799年にはフランスのナポレオンがアッコを攻囲し多大な被害を出したものの、攻め落とすことができず撤退したそうです。


灯台を上から見たアッコの夕景

十字軍の遺跡を発掘

さまざまな支配の元、歴史を重ねてきたアッコ旧市街、その地下にある巨大な遺構が発見されたのは、1950年代のこと。しかし、地上に人が住んでいたため、発掘が始まるまでには40年近く時間がかかったそうです。
十字軍により建てられた建築物が単体ではなく、街全体として残っているという稀なケースは、世界でもこのアッコだけといわれています。世界遺産アッコの十字軍の遺構は、イスラエル周辺の複雑な歴史を学べるおすすめのスポットです。


アッコ旧市街にあるテンプラートンネル。この地下トンネルは西のテンプル宮殿(1291年に海没)から東の海港へとつながっている

城塞都市の歴史を語る城壁

アッコ旧市街を訪れて、まず驚くのが幅広く残る城壁と堀。稜堡式(りょうほうしき)になっている部分もあるため、その堅固さも感じ流ことができます。また、城壁の上は歩くことができるため、城壁の上からアッコの景色を楽しむことも可能です。
さらに、城壁にある塔は歴史博物館になっていて、館内には出土品や装飾品、近年まで使われていた家庭用品のコレクションまで、アッコに関する多彩な品々が展示されています。
城壁からの景色はもちろん、さまざまな点で中世の城塞都市の歴史を感じられるポイントです。


アッコの城壁

アラベスク模様の装飾が美しいモスク

1781年、オスマン帝国のアッコの支配者ジャッザール・アフマド・バッシャーによって建てられた「ジャッザール・モスク」。
外観の美しさはもちろん、アラベスク模様の装飾などの見事な内装も必見。しかも、モスク内には、イスラム教の開祖である預言者ムハンマドの髭や頭髪なども保管されているとのこと。
また、アッコは聖職者を置かず共同体を結成して活動するバハーイー教の聖地のため、同教の施設が点在しています。これらは「ハイファと西ガリラヤのバハーイー教聖地群」という名で、別の世界遺産として登録されています。


アッコ旧市街のジャザール・モスク

いくつもの文明が交錯するアッコ旧市街。この地も、ぜひ訪れたい世界遺産のひとつといえるでしょう。