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BUSINESS

元オリンピック選手であり、イスラエル最大のスポーツ専門旅行代理店会社CEOの2021東京オリンピックにかける思い

独占インタビュー | Yoav Bruck (元オリンピック代表選手、現Issta Sports社CEO)


残り6ヶ月を切ったこの時点でも、2021東京オリンピックの開催はまだ闇の中です。しかし、元オリンピック代表選手でもあるYoav Bruck氏は、その開催を強く信じています。


様々な水泳の世界大会で活躍したキャリアをベースに、Yoavは、現在イスラエルを代表するスポーツ専門旅行代理店を支える人物になりました。


このインタビューでは、彼のそのスポーツにかける思いと共に、イスラエルから日本、また日本からイスラエルへの観光ツーリズムの未来、そして2021年のオリンピック開催に関して語っていただきました。


9歳にして、将来の可能性を自覚

Yoavが育ったのは、イスラエル南部の小さな村です。水泳を始めたのは9歳の時。天性の運動能力に加え、その勤勉な練習の積み重ねで、17歳の時にはすでに、100m自由形でイスラエル記録を書き換えるまでに至りました。


次に彼が目指したのは、世界最大の水泳王国、アメリカです。


「より速い記録のためには、やはり競争の激しい場所で自分を鍛えるのが一番だと気づきました。それで、第12学年(訳注: 日本の高校3年生にあたる)の時、アメリカに渡る決心をしたのです。」


アメリカの大学に通いながら、世界でもトップクラスの選手たちと共に、水泳の練習に打ち込む日々が続きます。そんな中、イスラエルに帰国すると、旧ソビエト政権の崩壊と新たなロシアの出現に伴い、ロシアからの移民がピークを迎えていました。そこで出会ったのが、世界でも一流のロシア人コーチでした。


「学校生活はいつも水泳と隣り合わせでしたね。いつも時間に追われるような、無茶苦茶に忙しいスケジュールをこなしていました。」


練習は朝5時から始まります。そして学校は7時45分から。放課後はもちろんまた水泳の練習です。翌日朝5時の練習に備えるためにはしっかり睡眠を取る必要がありましたが、それでもその前にはしっかりと食事を摂り、宿題もこなす必要がありました。


「ほんとうに、毎日がそんな張り詰めた生活でしたね。水泳というスポーツは、ある意味、シジフォスの神話(訳注: ギリシャ神話のシジフォスの物語。彼は巨大な岩を山頂へ押し上げる苦行を神々に科せられる。しかし彼が押し上げた岩はすぐに谷底に転がり落ち、彼は果てしないこの徒労を延々と繰り返す。)的な側面があるのですよ。」


ヨーロッパ選手権第5位の成績

スポーツに身を捧げたそんな努力の結果、ついにYoavはトップの座にまで泳ぎ着きます。オリンピックを含む様々な競技会を彼自身の視野に収められるようになってきたのです。


「私自身は、3度のオリンピックを経験しています。92年のバルセロナ、96年のアトランタ、そして2000年のシドニーですね。アトランタ五輪では、イスライエル水泳史上初めて、決勝にまで残るという業績を残しました。」



「94年の世界大会では、水泳競技中最も短い、そして最速の競技である50m自由形で、パーソナルベストを出すことができました。ヨーロッパ選手権にももちろん出場していますよ。ピーク時には、欧州第5位の成績を残すことができました。」


直にオリンピックを経験することで、彼はそのマジックともいえる側面に触れることになります。無論、競技会での成績は、単に自身の能力を示すものです。しかし、レジェンド、と称されるような選手たちとその「同じ」時間を共有できたことは、彼にとってまさに憧れの頂点ともいえる瞬間でした。


「一番最初のオリンピックの時には、マイケル・ジョーダンにマジック・ジョンソン、ラリー・バードといった超一流の選手たちを擁するアメリカチームと一緒にオリンピック村入りをしたのです。次のオリンピックでは、ムハマンド・アリ選手と会うことができました。数年後、すでに競技会からは身を引いていましたが、北京オリンピックの時にはマイケル・ヘルプス選手とも会うことができました。」


でも彼は、そんな「レジェンド」たちを前にしても、怖気付いたりはしませんでした。「会場では、イランや北朝鮮の選手たちと一緒のバスになったりするわけです。普通の生活をしていたら、一生出会えないような人たちですよね?こう言った経験は本当に貴重なものだと思います。」


Issta Sports起業

他のオリンピック選手同様、キャリア終盤に差し掛かると、彼もスポンサー探しに躍起となります。まず連絡を取ったのは、すでに旅行業界で活躍していたAmir Peled氏(Issta Sports社 現会長)でした。


「彼からまず教えられたことは、スポンサー探しなどおやめなさい、ということでした。しかし同時に、スポーツ選手としてのキャリアが終わった後、自分は何をするべきなのが、じっくり考えてみろ、ということも諭されました。これは私の人生の中で、最も素晴らしい助言でしたね。そうやって彼は、最大手の旅行代理店であるIssta社との仲を取り持ってくれ、スポーツ・ツーリズムというアイデアを私に与えてくれたのです。」


そうして訪れた1999年の暮れ、まだ次のオリンピックに向けての練習に明け暮れ、テルアビブ大学でのMBA取得に向けての勉強を続けている最中に、彼はIssta Sports社を起業するのです。


当初、Issta Sports社は、スポーツ関連団体やチームの移動、そしてそのトレーニングキャンプ開催などに特化していました。しかし、ビジネスを進めるうち、同時にそのチームを取り巻く「ファン」たちの需要も取り込むようになっていったのです。


「マッカビ・テルアビブ・バスケットボールチームが欧州遠征をした際、一般向けパッケージツアーを売り出したのですが、それはもう大変な人気でした。その功績もあり、その後、FCバルセロナのイスラエルにおける正式代理店としての権利を取得、そしてワールドカップ、オリンピックへと私たちのビジネスを広げていってくれたのです。」


今まさに、新型コロナウイルス後の市場を見据え、彼はイスラエルを日本の旅行者に売り込むためのパッケージを、日本の旅行会社とのパートナーシップを通じてまとめようとしています。「サウジアラビア上空の通過を認めたイスラエルとアラブ首長国連合間での合意で、日本とイスラエルを結ぶ航空時間は劇的に短くなり、日本の皆さんに、この美しい国イスラエルを、より身近に体験いただけるようになったのです。」


東京オリンピックと新型コロナウイルス

彼のオリンピックへの愛は、今この時点でも途切れることはありません。


既にパンデミック発生の前、東京オリンピックに向けた準備を進める中、Issta Sports社は「Japaniche」という、日本とニッチを組み合わせた造語をコアにした旅行キャンペーンを始めていました。日本旅行の新しいパッケージツアーです。



「すでに私の日本訪問は8回目を数えるまでになりました。リオ五輪の後、私はすぐに日本に飛び、まさに海外の代理店としては一番最初に、様々な日本の地方自治体や団体との会議、そして日本国内の旅行代理店との会議を重ねてきました。私の日本に対する熱意をしっかりみなさんにお伝えしたかったのです。」


「何しろ、海外勢として一番最初に日本に渡り、私たちの本気度を日本の皆さんにお伝えすることが非常に大切なことだったのです。私どもは、オリンピックと長年にわたって仕事をしてきており、また、しっかりと組織された会社でもあり、価値ある様々な経験を踏んできています。私どもは、イスラエルだけでなく、スペインからの旅行者のメインの代理店でもあります。もしこの新型コロナウイルス騒ぎがなければ、たくさんの観客を日本に連れてくることができていたでしょう。」


彼は、オリンピックのためのイスラエルハウスを東京にオープンさせる夢を捨てていません。「オリンピック委員会の決定を固唾を飲んで待っているところです。まだ半年以上の時間が残っています。推移をじっくり見守っていきましょう。」


「絶対にオリンピックは開催されると信じています。日本の皆さんが、正しい方法で、しっかり組織立った安全なオリンピックを開催することを信じています。確かに目の前の壁は大きいでしょう。しかし、世界中が協力し合うことで、素晴らしいオリンピックを、日本の皆さん、そして世界中の観客の皆さんにお届けすることができるのです。」