2011年3月11日から10年たった今でも、あの日のことをよく覚えている方は多いのではないでしょうか。私もそのうちの一人です。
今回はイスラエル医療支援チームの一員として、宮城県南三陸町で活動した際の私の経験を語ります。
日本とイスラエルの両文化を理解する者として医療支援チームに参加
3月29日から2週間弱にわたり、イスラエル軍の55人の医療支援チームは、宮城県南三陸町の仮設診療所で診察活動を行いました。この診察所では内科、外科、眼科や血液検査に加え、x線撮影等のできる体制が整えられていました。医療チーム帰国後は医療器具を含めた仮設診療所は南三陸町に寄付され、復興に献上したと伝えられています。
私の名前は木村リヒです。1991年に日本人の父とイスラエル人の母のもとに生まれ、大阪で育ちました。
16歳の時に母の母国であるイスラエルに移住し、イスラエルの高校卒業後、国民の義務である兵役を行いました。
2011年3月11日、士官過程を終え新しい基地に付属されたばかりで右も左も分からない私に、母から一本の電話がありました。「日本ですごく大きい地震があったみたい。お父さんは大丈夫だって(当時、父は大阪にいました)」。
数日後、中尉から至急会議室に来るよう命じられ、そこで聞いたのは日本の被災地にイスラエル軍からの医療チーム派遣の許可が下り、早急に準備する必要があるとのこと。そして、医療支援チームに両国の文化と言葉の理解ができるものを探しているとのことでした。16歳まで日本で育ったこともあり、言葉の壁のなかった私は当時、軍に所属したてであった妹(木村ノイ)ともう一人の通訳者と共に、通訳チームとしてイスラエル国防軍医療支援チームに加わりました。
日本での支援活動
3月29日の昼に南三陸町に到着しました。少し不謹慎ですが、初めて日本に来るイスラエル人も多く、チーム内では不安より興味が勝る雰囲気でした。しかし、南三陸町に着いた途端、バス全体に数分の沈黙が流れたのをよく覚えています。この世の光景ではありませんでした。全て流されてしまった街は現実離れしすぎていて、目に映る眺めをどう処理すればいいのか分からない状態でした。皆が呆然とするまま仮設診療所を建てる場所へ到着し、心の整理ができないまま、診療開始に向け準備を始める必要がありました。
最初の数日は診療開始に向け、日本人医療機関の方や自衛隊の方との打ち合わせの日々でした。その後もメディアへの対応や現地の人との交流の際に、通訳者としてサポートをしていました。
そんな目まぐるしい日々の中で、私たちチームの癒しは興味本位で遊びに来てくれる子供たちです。おそらく大人たちは、今日一日を生きるのでいっぱいだったと思います。しかし子供は子供、どんなことにも興味を持ってくれ、”外国人でいっぱい”の診療所に毎日のように遊びに来てくれました。ここばかりは通訳者としての私の出番は必要なく、言葉が通じなくても皆と問題なくコミュニケーションがとれていました。私たちも、せめて子供には楽しんでほしい、笑顔でいてほしいと、できる限りの時間を与え遊んでいたのですが、今考えると実際は私たちの方が遊びに来てくれる子供たちにエネルギーをもらっていたような気がします。
子供と言えば忘れられないのが、支援の一環で近くの小学校に行ったときのことです。他の診断所も巡回していたのですが、その際に小学校によって運動場にいる子供と遊ぶことがありました。どこでも同じく、言葉は必要なくただボール一つで心を通わせられることに感動しました。
そして、とても嬉しかったのは産婦人科での活動です。たくさんある設備の中でも産婦人科が特に活躍していて、たくさんの妊婦さんや赤ちゃんの診察が行われていました。どんな状況でも笑顔をたやさず強くたくましく生きている母たちの姿は今でも鮮明に覚えています。
戦争を体験した祖父と軍服で再会
最後に私の一番心に残っている話をさせてください。私は妹と共に訪日しており、帰国する数日前に士官から特別に1日のみ日本にいる家族に会える許可が出て、私たちは群馬県に住む祖父母に会いに行くことにしました。当初はイスラエル軍の軍服を着て医療支援を行っておりましたので、祖父母と再会する際も軍服を着ていました。太平洋戦争で日本軍として戦った経験もある頑固な祖父が、この再会をどう受け取ってくれるのかドキドキしていたのをよく覚えています。祖父母はいつもと変わらず温かく受け入れてくれ、言葉では表しませんでしたが、私たち姉妹がイスラエルから日本への支援のチームとして来ていることを喜んでくれているのがよく伝わりました。
私が東日本大震災に医療チームとして支援した際に感じたことは「人間の力強さ」です。私は当時の災害は経験しておらず、災害後の状況を見ただけです。しかしその時の状況は、まさにこの世の終わりのように感じました。あの状況で未来や希望を語ることなど想像できませんでした。しかし被災者は違います。驚くほどに力強く、笑顔を絶やさず、支援する側の私たちのことを常に気にかけてくれていました。こう感じたのは私だけではありません。共にいたイスラエルチームの皆が感じたことでした。
この記事を書くにあたり、当時のことを思い出しながら、10年たった今だからこそ何ができるのかを考えています。誰にどう支援できるかや、当時のことを語り続けることなど、今でもたくさんできることがあるはずです。
10年という年月を経た今、再度、東日本大震災について考えてみるのはいかがでしょうか。